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プロローグ
人生なんて短いもんだよなあ。ホンマにあっと言う間。気がついたら老いぼれ爺いになってたぜ。他人に遠慮しながら自分の居場所を探し歩いて、いつの間にか怖いものが無くなったときには社会的弱者になってたんだよね。枕の下には財布がひとつ。その中身は、あらま!小銭ばかりで千円札一枚ありゃしない。
若い時は羽振りのいい時代もあったんだよね。スタンダードジャズを歌うニューヨーク帰りのメイだかマイだかいう女性歌手のバンドのメンバーだった頃さ。
「フラィミートゥザムーン、レッミープレイ、アマンザスターズ」なんてね。
それが今じゃ日本海の憂鬱な空を見ながら、若い介護士にオムツを替えてもらう身さ。痩せ細って皮膚の垂れた太ももと締りのない尻を晒してね。いや、もう恥ずかしくもないんだけどね。
ここは特養とか言う施設らしい。便と尿と消毒の臭いの中で、介護スタッフが疲れ切った顔で動き回っている。可哀相なもんだぜ、赤の他人のシモの世話に明け暮れる毎日なんだからな。
それでも若いスタッフの中にはいつも元気なのがいる。とりわけ笑顔の可愛い久保みどりって子が俺のお気に入りなんだ。
彼女はまだ二十四歳。ここ、城崎の片田舎に家族と暮らしているから恋人も出来やしない。だけど気さくで笑顔が可愛いんだ。今もオムツを替えた後に話しかけてきた。
「橙木(とうのき)さんて変わった姓ですね。橙(だいだい)の木だから、和歌山とか愛媛出身なんですか」
「さあね。育ったのは横浜だけど、先祖がどこから来たのかは聞いてないなあ」
「横浜ですか。いいなあ、私も東京とか神奈川で暮らしたいです」
「行けばいいじゃないか。二十年後でも、三十年後でも。俺は六十過ぎて大阪に引っ越したぜ」
「へえ。大阪はよく知ってますよ。どの辺ですか」
「堺だ。妻が病気で死んでな。俺はやくざな世界にいたもんだから子供が心配して、こっちに来いと。でも孫が生まれたばかりで同居は出来ないからと、自宅の近くのアパートを借りてくれたんだ」
「そうなんですか。お近くに家族がおいでだったのなら、寂しくなかったんですね」
「そうだな。バーでピアノ弾きの仕事もしていたが、昼間は時間がたっぷりあった。孫と一緒にいられて幸せだったね。堺で初めて家庭的な人間になったよ」
「良かったですねえ。また来てくださるといいですね」
「あんたはみどりって名だろ?孫が中学生だった時の友だちに緑野まりこって子がいてな。あんたの顔を見ると、その子のことを思い出すんだ。名前も似てるが、どことのう面影がなあ」
「へえ。お孫さんの彼女だったんですか?」
「いや、そうじゃない。でも活発な子でな、あの子が先に声をかけてきたんだ。そのおかげで孫はとても不思議な体験をしたのさ」
「不思議な体験?」
「不思議というか、神秘体験というのか。一冊の本にしてもいいくらいの風変わりな話だよ」
「ふうん。ねッ、本にするのなら何てタイトルにしましょうね」
「そりゃあいつらの名前だよ。ええっと、何だっけなぁ。そうだ、思い出した!」
みどりさんは顔を近付けて、ニコッと笑ったよ。
「教えてください」なんて言ってな。
だから俺もめったにしない笑顔を見せて言ったんだ。
「ハニワンダー。おっと!それでは翔吾が描いたマンガのタイトルと同じだな。じゃあね、おはなしハニワンダー。これでいこう!」
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