第一話

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第一話

「あれがそうですの?」 「よくここに来れたものだな」 「わたくし、嫌ですわ。あのようなものと同じくするなんて」  麗かな春、イスピカ国立魔法学園の校門が青緑色に光を照り返す。咲き乱れる花の香りと暖かい風、そしてそれと全く反対の冷たい視線とこそこそした陰口に出迎えられたメアリは、しかしながら顔を伏せることなく、まっすぐに前だけを見据えていた。迷いなく歩を進める彼女に、その左斜め後ろでいくつもの荷物を積んだ台車を押すバークスが囁く。 「本当によろしいのですか。私は影に控えておりましょうか」  メアリは微笑んで、己の執事に囁き返した。 「構わないわ。あなたがいるだけで、わたしは何でも出来る気がするもの。この日を、こうしてふたりで迎えられて嬉しいわ」  主人の言葉に、バークスは「は。さようで」と答え、一呼吸置いてから付け足した。 「私も、あなたと共に在れることを誇りに思います」  イスピカ国立魔法学園は、イストー大陸にある四つの国の中で最も古く、歴史ある学園だ。ここに入学できることは名誉であり、生徒の八割は魔法適性試験で才能を認められた王族や貴族の子供たちである。二割は、同じ試験を通過した一般家庭の子供たちだ。イスピカは学問と芸術の国として、古から栄えてきた国ゆえに、新しい才能の発掘に力を入れている。  メアリがここに入学することができるのも、彼女の身分と生まれつき持っていた魔法の才能のおかげだ。 「まさか、本当にやってくるとは驚きましたわ」  鈴を転がすような優美は声は、しかしながら凍てついていて、含まれている棘を隠しもしていなかった。  美しい銀色の髪をきちんと結い上げて淡いブルーのリボンを風に遊ばせている目の前の少女は、メアリとその執事を敵意を剥き出しにした目で眺め回す。 「先生からお話を伺って、わたくし、冗談かと思ってしまいましたの」 「ええ。そうでしょうね。しかし、わたしが受け取った入学許可証は本物でしたし、先生がたにもお会いして、ぜひにとおっしゃっていただきました」  メアリはやわらかく口元に笑みを浮かべながらそう返した。 「失礼、まだ名乗っておりませんでしたね。わたしは」 「結構よ」  メアリたちを遠巻きにしていた人々のざわめきがまるでぴたりと止まる。凪いだ海の上のようにそこには風の立てるかすかな音さえはっきりと響いた。  国や文化によって自己紹介にはあまたの作法があるが、そのどれもに共通する基本中の基本が「相手の自己紹介を遮ってはならない」。これは相手への最大級の侮辱だからだ。メアリは、あら、と思った。背後のバークスから不穏な気配が漂い、地を這うような声が低く、しかしはっきりと「ここにおられる方が一体どなたなのか、本当に分かっておいででしょうか」と尋ねた。 「フットマンは黙りなさい。使用人のしつけもなっていないのね」  目の前の令嬢は冷笑する。メアリは、あら、では済まなくなった。  メアリはこういった対応を取られることは想定していたし、何よりも経験してその受け流し方も身についている。相手はメアリを怒らせたいのだ。人が怒るとき、そこには本質が現れる。この麗しい、どこの令嬢とも知らぬ娘はメアリの本性を、この名誉ある学び舎の真正面で暴きたがっている。 「そもそも、そんなものを連れてくるだなんて、本当に野蛮ですわ。常識を知らないのかしら。ああ、ご存じないのですね。岩山のお姫様は」 「そんなもの?」  令嬢は己の計略がうまくいっていることを確信したのか、勝ち誇ったように口角を上げて、銀色の横髪を指先に巻き付けた。 「そのような魔物を、この神聖な学園に立ち入らせるのは学園への侮辱ですわ。追い返して」  メアリは、背後のバークスがどのような顔をしているのかはわからない。固唾を呑んでやり取りを見守る生徒たちもわからないだろう。上背があり、仕立ての良いスーツに包まれた身体は分厚く、天から糸で吊るされたかのようにその姿勢には一部の隙もない。その顔は、頭は、夜の闇を煮溶かしたかのように暗い黒で、水面のごとくかすかに波打っている。  令嬢の言う通り、バークスは魔物だ。 「……自己紹介が途中でしたね?」  メアリは笑った。晴れやかに。 「わたしは、メアリ。メアリ・アーフィルツ・ド・トイフェル。父は、アーフィルツ・バルバンド・ド・トイフェル。断崖の君主。北のゴルゴアから南のゾイアを納める、魔王です。此度、こちらの学園にお世話になります」  かつて、イストーの大陸では、魔王率いる魔物たちと人間たちが長い長い戦争を繰り広げた。少なくとも、人間が教わる歴史上ではそうなっている。長い戦は民を疲弊させ、土地は荒れ、病が分け隔てなく命を奪った。互いの君主は互いの発展を考え、和解をし、これからは敵ではなく良き隣人となることを誓い合ったのがおよそ五十年前。月日が流れてもなお、人間の魔物に対する恐怖は存在する。魔物の人間に対する憎しみもまた、同じだ。  メアリは正真正銘の人間である。人間でありながら、魔王アーフィルツの収めるトイフェルで、かつて人間を恐れさせた強大で残酷な魔王の娘として育った。  人間である彼女を憎み、謗る魔物など星の数ほどいた。魔王に仕える者たちにさえ。それでも、彼女は幸福に育った。生来の純真さが彼らのわだかまりを溶かしていったのは紛れもない事実であるが、彼女がそれを失わないよう、守り、愛したのは他でもない魔王である父と、乳飲み子であったころから傍らにあったバークスだった。  メアリは、この影法師のごとき執事と共にあるのであればどこまでも強くなる。どんな困難があったとしても前を向き、歩み出すことができる。  ゆえに。 「入学に際しての書類には、王族及び貴族は従者一名の動向を許されるとありました。わたしがバークスを伴うことはなんら問題ないと理解しております」  揺らぐ怒りは鳴りを潜め、メアリの声はただ春の日のように穏やかだった。わがままを言ってぐずる幼子を宥める母のやさしい声のように。 「それは人間の場合で……っ」  令嬢がまごついた。 「そのような記載はありませんでした。あったのはただ、従者、一名。種族についての言及がないのであれば、わたしの執事が魔物であろうと咎められる理由がございません。それに」  メアリは傍らのバークスを見上げる。彼の面はただメアリの視線を受け止める。それだけで、メアリには十分だ。 「バークスは、わたしにはもったいないほどの執事です。彼ほど有能な者をわたしは知りません。確かに、わたしのような娘が男性の従者を伴うことは、こちらではあまり例がないことは存じております。ですが、彼はわたしに不可欠であり、わたしの誇りです。一名という限りがあるのであれば、最も信頼している彼をわたしは選びます。……さて、そろそろよろしいでしょうか。わたし、部屋に荷物を運ばなければならないの」  令嬢は唇を噛み、次の言葉を探していた。が、どれだけの侮辱を吐こうとも、メアリはそれを跳ね返すだろう。微笑みさえ浮かべて、晴れやかに。かろやかに。 「わたくしは……」 「名乗られずとも結構ですよ。わたしもきっと遮ってしまうわ。ここではそれが、常識らしいので、それに倣って。参りましょう、バークス」 「かしこまりました。メアリ様」  すべてが終わった。メアリはやはり迷いなく歩を進め、彼女の従者は荷台と共にその後ろに続く。令嬢はその場に縫い付けられたかのように動くことができず、ただ行き過ぎるメアリの金色の髪が風に揺れるのを見ていた。  入学式も滞りなく――むろん周りからの好奇と恐怖の視線はあれど――済み、新たな場所での生活が始まる。人間の暮らす、人間の国で、魔王の娘と魔物の執事はこうしてイスピカ国立魔法学園への入学を果たした。魔物たちの国とは何もかもが違う新たな場所で、メアリとバークスはいくつもの困難と出会うだろう。それでも、朝になればメアリはバークスのオリジナルブレンドの紅茶を楽しみ、バークスはメアリの制服に念入りにアイロンをあて、金の髪を梳くのだ。  しかし、何故メアリとバークスがこの学園にやってきたのか。それは入学式より三か月ほど時を遡ることになる。
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