第十三話

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第十三話

 春霞祭は、鼻をくすぐるやさしい花の香りと、祝いの鐘と共にはじまった。イスピオールの街はいたるところに花輪が飾られ、植物で春の女神イスピカの像が作られた。屋台が通りに立ち並び、お守りやちょっとしたアクセサリーさえ売られている。人々は浮かれ、歌い、明るい笑い声がイスピオールの空にこだました。  メアリはそんな祭りの陽気な気分を味わうことができずにいた。現在、午後四時半。パレードなどの大きな催しが終わってもなお、街からも学内からも楽しげな声が遠く聞こえてくる中で、彼女は今夜の舞踏会の招待状を見つめる。彼女の分と、その父兄あてのものだ。だが、肝心の父兄であるロルベール大公が到着していない。  今朝早くにララローシュとその娘たちが届けにきてくれたドレスは、メアリの部屋にかけられている。見事、と言う他ない出来栄えだった。シャンパンゴールドの生地はやわらかい光沢を持って、水面のようにゆったりと広がり、そこへ木々の枝を模した金の糸の刺繍が施されている。枝は裾から胴まわり、胸、そして上へと伸びていって、このドレスが金の樹木そのもののようにも見えた。  バークスがひかえめにノックをしてから室内に入ってくる。 「叔父様から何か連絡はあった?」  メアリの声が不安に揺れたのも致し方のないことだった。 「いいえ」  打てば響くバークスの低い声が無情にもそう応える。そう、とメアリは視線を落とし、意味もなく手櫛で髪をすいた。午後六時の舞踏会に間に合わなければ、メアリはひとりで舞踏会へ参加することになる。  そもそも、ロルベールは一週間前には到着している手筈になっていたのだ。  それが、手続きの不備やら何やらで伸びに伸び、国境で足止めされていると水鏡越しに連絡が来ていた。当日には必ず向かう、安心してほしいと言った彼の穏やかな声を思い返しながら何かあったのだろうとメアリは思う。それが何であれ、あの叔父のことだから命の心配などはしていないが、よからぬ思惑の渦中に自分がいることをメアリは嫌というほど感じていた。バークスもそれは同様のようだ。 「メアリ様、ひとまずお召し替えを」  二週間前、ロルベールに連絡を取り、ドレスを発注しにいった際に、もしものことを考えなかったわけではないが、実際に起こってみると腹の底がひどくざわついて、メアリは椅子から立ち上がるのも億劫になった。 「メアリ様」  バークスがそっと歩み寄ってきて、彼女のそばに膝をつく。自分を見上げる夜を溶かした色の顔を見つめて、メアリは視線だけでその意図を問うた。 「私がおそばにおります。何も恐れることはございません」  彼の手が、メアリの手を取って力強く握ってくれる。それだけで、メアリは救われたような気持ちになった。自然とこぼれた笑みに、沈んだ部屋の空気がわずかに軽く、明るくなる。本当に不思議だとメアリは思う。  バークスにこう言われると、メアリは何でもできてしまいそうになるのだ。 「そうね。支度するわ」  握られた手に空いた手を重ね、メアリはうなずいて見せた。バークスが立ち上がって、部屋から出ていく。メアリはそっと衣服を脱いで、鏡の前に立った。  ▲  ロルベールは目の前に立ち塞がる制服を来た人間ふたりを見下ろした。 「通行許可証、渡航許可証、身分証明書、あと他に何をお見せすればよろしいのでしょう?」  彼は神秘のヴェールをかぶっているので、目の前の人間たちには彼らの理想とするような姿形の人間の男にしか見えていないはずだ。それだのに、警備兵はがんとして動かず、「申し訳ございません」と声を張るばかりである。  ロルベールがこうして足止めを食らうのは二度目だ。一度目は国境で、二度目はこのイスピオールに入る跳ね橋のど真ん中で。  イスピオールは周囲を運河に囲まれた都市であり、この運河によって発展していったといっても過言ではない。街へ入るには東西南北の四つの跳ね橋のいずれかを渡らねばならず、たとえトイフェルの大公であろうと例外はないのだ。ということは、ロルベールも承知している。  彼は人間の求めに従い、貴族であるのにつれているのは従者ひとりきりで──もっともロルベールは大人数で歩き回るのが嫌いだ──、ドラゴンも伴わずほとんど歩いて国境を越えやってきたのに、まだ何か文句があるらしい。 「わたくしは六時にはイスピカ国立魔法学園に赴かねばならぬ用事がございます。これは公務といっても差し支えないのですが、それを一体どんな理由で妨げるのでしょうか?」  そもそも他国の王族を迎え入れる態度ではなかったこの国で、どこまで下手に出ればよいのだろうとロルベールは思った。目の前の男ふたり程度、どうとでもできる力がロルベールにあることを警備兵たちは知らないのだろうか。知っていてなおロルベールを留める理由があるとするならば、それは一体何なのか。 「今日は春霞の祭の日です。申し訳ございませんが、怪しいものをこの街へ入れるわけには参りません」  ふと、ロルベールはその目が気になった。焦点があっていないのだ。はじめはヴェールの効果かと思ったが、どうやらそうではない。ふたりの視線はロルベールを捉えることなく、ふよふよと宙を漂っているのである。まるで起きていながら夢の中に取り残されてしまっているかのように。  すうっと息を吸い込めば僅かだが甘苦い香りがした。 「おやおや。おやおやおやおや……これは……」  ロルベールのすぐ左手に、今にも沈んでいこうとする太陽がある。彼は会場で己を待っているかわいい姪のことを思った。「こんなこと」をしでかすような相手の思惑の中にメアリはいるのだ。  彼はすう、と両手を差し出すと、高らかな音を立てて二度拍手をした。花の香りを纏う風の生命を呼ぶ。 「わたくしは鋼鉄の身体を持つもの、トイフェルに根を下ろす一族に名を連ねるもの。ロルベール・バルバンド・ド・トイフェルの名のもとにこの言の葉を託します。英雄の矢よりも速きあなた、この言葉を春の国、花の町の影の男にお届け願います」  ▲  学園の門の前には馬車が長い列を造り、煌びやかなドレスや礼服がひとつの首飾りのように講堂へと続いていた。メアリの隣にいたアビゲイルは父を迎えに行き、先に会場へ向かう手筈になっている。時計の針は無常に進み、あと数分もすれば六時の鐘が鳴ってしまう。  メアリは短く息を吸って、ついと顔を上げた。念入りな化粧を施し、煌びやかなドレスに身を包んだ彼女は、不安に揺れる心を笑顔で塗りつぶす。一国の王女として、魔王の娘として誇り高く、迷いなく一歩一歩足を進める。  周りからの好奇の視線が痛いほど彼女に突き刺さる。夜がその帳を下ろし始め、空には白く星が輝いていた。オレンジ色の明かりがそこかしこに設置され、歩くには申し分なかった。どの生徒も傍らに父兄や未来の婚約者を伴っている中で、メアリはたったひとり、講堂の開け放たれた扉の前に立った。  ノーストウェルズ学長に頼ることはさすがにできない。何せ主催者なのだ。  バークスはどこに行ってしまったのだろう、とメアリは思った。着替えを済ませて、しばらくすると姿の見えなくなっていた従者がここにいてくれたらいいのにとこれほど願ったことはない。 「お願い致します」  メアリは扉の傍らに佇む受付の男性に招待状を差し出す。彼はメアリを見てぎょっとしたが、すぐに笑みを作り直して招待状を受け取った。 「お連れの方は……」  彼の視線は彼女の背後を伺ったが、そこには何もいやしない。 「あら。岩山のお姫様は一緒に踊ってくださる殿方もいらっしゃらないの?」  煌びやかなシャンデリアで飾り付けられた会場から、鈴を転がすような声が投げかけられる。銀色の髪は完璧に結い上げられ、海の底のようなブルーの宝石が輝く髪飾りがうつくしく光を照り返した。髪飾りと合わせた深い青色のドレスには銀色の刺繍が施されている。  フローレンス・レミントンが勝ち誇ったような笑みを浮かべてメアリを見ていた。彼女が腕を絡めているのは淡い栗色の髪にひどく整った面立ちの青年で、王族であることを示すイスピカの紋章の指輪をしている。婚約者のオリヴァー・ゴッドフリード・フォン・イスピカ。この国の第二王子だ。  通常であれば、婚約者か父兄にエスコートされて入場する場にひとりでいるメアリはただでさえじろじろと眺めまわされていたが、フローレンスの声がそれに拍車をかけた。ロルベールの渡航がスムーズにいかなかったのは、このフローレンス及び彼女の父であるレミントン侯爵が噛んでいるのだろうとメアリは他人事のように思う。こうしてメアリを辱めてこの間の雪辱を晴らそうというフローレンスの意図が彼女には手に取るようにわかる。  会場の隅でこちらを伺うアビゲイルの姿が見えて、メアリは微笑みをたたえたまま、すっと冷えていく腹の中を持て余していた。 「ここにあなたと踊るようなもの好きはいらっしゃいませんわ。お帰りになられた方がいいのではなくて?」  婚約者の暴言も、オリヴァーにはどうでもいいことなのか、むしろ楽しんでいるのか表情一つ変えることなく彼の目はメアリを見ていた。  応えようとしたメアリの口からただ空気の音が漏れたそのとき、ざわりと彼女の背後が騒々しくなった。 「遅れてすまないね」  低い声。穏やかで、夜の水面のように凪いでいるのに、深く温かい。  そっとメアリの腕を取る誰かを思わず振り返ると、そこにはひとりの男がいた。  背が高く、礼服に包まれた肉体は分厚い。一部の隙も無い立ち姿に、きっちりと撫でつけられた黒髪。整った顔の輪郭に、すっきりとした目元と、通った鼻筋、薄い唇が完璧なバランスで収まっている。わずかに尖った耳に、静かな夜の色をした瞳を持つそのひとは、滑らかに、メアリが気づくよりも前に彼女と腕を組んでみせた。 「街に入るのに、手間取ってしまいました」  メアリは茫然としてそう言う横顔を見上げた。腕から染み入ってくる体温はそれが現実であることを物語っているのに、脳が理解する速度が追い付かない。ただメアリにはこれだけはわかった。  この男は叔父ではない。  男はごく自然にメアリと腕を組み受付を済ませると会場へと彼女を導く。遠くで「ロルベール・バルバンド・ド・トイフェル大公殿下! メアリ・アーフィルツ・ド・トイフェル嬢!」と読み上げる声が聞こえるが水の膜を通したようにメアリには感じられた。すべてこの男のせいだ。  漆黒の燕尾服の裾が優雅に揺れている。  この男が誰かなんて、尋ねるまでもなくメアリにはわかっていた。  組んだ右腕に左手を添えると、彼は右手でもって彼女の手を包んで応えてくれた。視線を交わす。その小さな二つの夜の中にわずかに赤くなった自分の顔を認めてメアリは思わず唇を噛んだ。 「こうするつもりだったなら、はじめから言ってくれてよかったのに」 「そういうわけにも参りません。極力この手は使いたくありませんでしたので。ですが、あなたをひとりには致しません。私は常に、あなたのお傍に在りたいのです」  その声が嫌というくらいメアリの耳に馴染んだ。 「バークス」  声をひそめてメアリは彼を呼ぶ。姿を変えてでも、従者であるという身分の違いを飛び越えてでも彼女の傍に在ろうとここにいる影の魔物に、彼女はただ「ありがとう」と言った。 「ここでは、私は『ロルベール大公』ですよ」 「……そうね。参りましょう、叔父様」  重ねた手にわずかばかりの力を込め合って、ふたりは前を向いた。
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