第二話

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第二話

 イスピカ国立魔法学園入学式の約三ヶ月前のこと。    メアリは眠りの淵にいた。柔らかなシーツは、体温を孕んで、メアリをゆりかごの中の赤子のように抱いている。窓から差し込む朝日の白い光がレースのカーテンを透かしてやわらかくメアリの寝室を満たした。そんな幸福な朝の眠りからメアリをそっと揺り起こすのは、芳醇な紅茶の香りである。  目蓋を開ければ、銀色の盆にティーセットを載せて立っているバークスがいる。 「おはようございます。メアリ様」 「おはよう、バークス。今日もいい天気ね」 「さようで」  バークスは体格のわりに足音が殆どしない。水面を滑るように、滑らかにメアリの傍らへやってくると、サイドテーブルに盆を据えて紅茶をカップに注ぎ入れた。 「どうぞ。新しい茶葉が手に入りましたので、ブレンド致しました」  差し出されたカップを受け取れば、ソーサーまで温かい。メアリがお礼を言って、ひとくち、紅茶を啜る。喉の奥を開くように流れていく赤味がかった美しい液体は、舌先にほのかな甘味を残した。これぞ、朝の一杯、という味だ。眠りの余韻は身体からすうっと消えて、一日の到来を祝福しようという気分になる。 「美味しいわ。流石ね」  メアリはこうして朝の一杯を口にする度、まったくバークスはなんて完璧なのだろうと思わずにいられない。 「光栄です」  ベッドの上で目覚めの一杯を楽しんだあとは、身支度を整えて朝食室へ向かう。そこでも、バークスがすでに最高の状態に整えた朝食が待っている。メアリは今日の衣服として選んだモスグリーンのたっぷりとしたワンピースのすそをついと指先でつまみあげ、バークスが引いてくれた椅子に腰を下ろした。 「今日は何かあった? 東のローウッドのあたりは天気が荒れていたようだけれど、何ともなかったかしら」 「は。ロルベール大公様、マルドロア大公様から贈り物が。あとで寝室にお運び致します。ローウッドは幸い、怪我人も死者もいないと伺っております」  打てば響くように、バークスに尋ねて答えが返ってこなかったことはない。そう、と返事をしながら、メアリは微笑んだ。完璧な執事と、彼がいることで成立する完璧な朝を噛み締める。 「いただきます」  カリカリに焼いたトーストとベーコン、完璧な焼き加減の目玉焼きの鮮烈な黄色、紅茶のおかわり、さっくりと甘いビスケット、甘辛く煮た豆。バークスがいなければ、訪れることのない毎朝だ。いつもと変わらない、穏やかで幸福なひとときをメアリは心の底から愛おしむ。  しかし、その日だけはひとつ、決定的に普段と異なっていた。そしてその差異は、隠しようもない足音と、山を揺らがすような朗々とした声と共にメアリとバークスの前に現れた。 「誕生日おめでとう、我が娘よ!」  メアリたちが暮らす魔王城の離れの扉を開け放ってやってきたのは、部屋がいっぱいになってしまうのではと危惧するほど巨大な身体に、黒く艶めく鎧と兜から覗く赤い眼光を持つ、メアリの養父、魔王アーフィルツだ。 「また一段と美しくなったな! 健康か? 何よりだ! いや、昨日まで赤子だったような気がする!」  アーフィルツはひとしきりまくしたてると、朝食室の小さな椅子に腰を下ろした。椅子は今にも死にますというような軋み方をしながらもかろうじてその命を繋いでいる。 「お父様、わたしからご挨拶に伺いますのに。それに、昨日も一緒にお茶したでしょう。昨日今日で大きくなったりきれいになったりはできないわ」 「ははは! 確かにな!」  バークスがアーフィルツの前にもティーカップを据える。  養父である魔王アーフィルツは、広大な国土を治めるために普段から多忙を極めているが、彼は午後のお茶の時間だけはどれだけ忙しくとも死守して娘とバークスの紅茶を楽しむような男だ。  メアリは、自分の誕生日に父が無理矢理休みを取って終日一緒にいてくれるのを何よりも嬉しく思っていた。小さいころは、父と共にドラゴンに乗って地平線を眺めに行ったり、一日中おままごとに付き合ってもらったりした。  血が繋がっていなくても、種族さえ違っていても、こうして真摯にメアリと向き合ってくれる養父のことを、メアリは心から尊敬している。  アーフィルツは甲冑の隙間からひとつの包みを取り出した。 「改めて、十五歳の誕生日おめでとう。メアリ」  机の上に据えられたそれは贈り物らしく丁寧に包装されているが、メアリには中身の予想が全くつかなかった。箱ではないのは火を見るより明らかだ。何故なら薄い。  メアリは首を傾げながらも、開けてみなさい、という養父の視線に従って包みに手を伸ばす。きらきらした包み紙は、傾けるたびに色を変える。  封を開けると、そこにあったのは一枚の紙だった。ずいぶんと厚みがあり、感触はさらりとしている。流れるような美しい文字で、「イスピカ国立魔法学園入学許可証」と書かれていた。 「えっ?」 「前々から考えていたのだ」  アーフィルツは兜を脱いで紅茶をひと啜りし、静かな声で言った。獅子のごときその顔は真剣そのものだ。 「大陸との行き来が規制されていることは、おまえも知っているな。向こうではどうしても手に入れられん希少な魔石やここでしか取れん薬草、魔獣の角や爪……他にもあるが、それを輸入するために向こうから規制を緩めると言ってきた」  人間たちとの長い戦争が終わり、この五十年魔物と人間はある種の均衡状態を保っている。和解したとはいえ、手を取り合ったなどとはとても言えない厳しい規制が両者の間に横たわり、何者も国境を越えることはできない。  というのは表向きの話で、人間たちが国境を超えて密猟にやってくるというのはざらにある。捕まえても、人間たちは見て見ぬ振りで、軋轢の種にしかならぬ密猟者を裁くわけにも行かずに、二度とするなよと効き目のない注意をして国に返す他ない。国境付近の村は常に緊張状態にあり、何とかしてくれと陳情も上がってきているのをメアリは知っている。 「つまり、わたしが人間の学園に通うことで、この国の安全性を証明し、資源の輸出へと繋げる……ということですね」  アーフィルツが満足げに頷いた。 「ただただ資源を寄越せといま向こうはがなり立ててくるが、こちらとて取引をするのであれば対等な立場でと、こちらから向こうへの移動の自由を条件として突きつけた。その結果がこの入学許可証だ」  その手袋に包まれた指先がとん、と軽やかな音を立てて机を叩く。 「おまえの入学を革切りに、制限はあるが魔物が大陸に渡る許可が降りる」 「……かしこまりました。これは公務なのですね?」 「そうだ。しかし、おまえに人間の暮らす国で、人間の友人に囲まれて生活してみてほしい、と我は前々から考えていた。ここには魔物しかおらぬ。同じ年頃のものもおらぬ。おまえを引き取ったとこに悔いなど微塵もありはしないが、おまえから人間の送る平穏な暮らしを奪ってしまったことが……」 「お父様、そんなこと仰らないで。わたしはお父様の娘で、この国で、ずっと幸せだったのです。よき友にも恵まれているし、この城の方にも良くしてもらっています。みな、わたしの大切な家族だわ。……此度の話、みなのためにも、謹んでお受け致します」  アーフィルツは安堵の息を吐いて、背もたれに体を預けた。 「そうか、受けてくれるか! よかった! 何よりだ」 「ただし、ひとつだけ条件をつけさせて」  魔王の体重に小さな椅子はとうとうバキリと断末魔を上げて、再起不可能なほどに真っ二つになってしまい、体重を預ける場所を失った魔王はけたたましい音と共に背後へと転がった。バークスがさっとその身をかがめ、魔王の身体を起しにかかる。 「わたしが三年間、立派に公務を勤めあげたら、ご褒美にある魔物の男性との結婚を許して欲しいの」  バークスの手が思わず魔王から離れ、起き上がりかけたアーフィルツは再び床に倒れ込んだ。    
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