遺人(いびと)

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 私は父との会話の仕方さえ、忘れてしまったのかもしれません。  父が今何を思い、考えを巡らせているのか。想像もできませんでした。  しかし、しばらく間があった後、父は開けていた目をさらにカッと見開いて、乾燥して切れている口の両端に、一瞬固く力を入れました。  そして、小さな、小さな声を内蔵の奥からしぼり出すようにして、唇の隙間を細く通すようにして言います。 「こ、この話を……この話を聞いたからには……お前にも見えるだろう、あの女が……この話を、この話を聞いたから……お前にも、見える。あの女が……」 「あの女? この話って? なんだい、父さん!?」  この話とは一体、なんのことなのでしょうか?  そもそも何の話もしていないのです。  意味がわからないと人は不安になり、いらいらします。私も例外ではありません。  すぐに父の上から両肩をつかみ、ぐっと力を入れ強く、強く揺さぶります。 「父さん!? なに、なんの話? なぁ! なんの話なんだよ!! さっさと説明しろよ!! っざけんな、くそが!! お前なんかなぁ!!!」  私は両手を、父の肩から首に移し力を入れます。 「……ぐっ、うっ……」  父の白目は真っ赤に充血して、切れた口の両端からは、ねばついた泡が吹き始めました。  すると、ぶるぶると小刻みに震える父はすっと右手を上げたのです。病室の角を指さします。 「……はっ、はっ、はぁ……」  私は父にかけていた手を離しました。  荒い呼吸をする父をよそに、私の目はさされた角に自然といきます。
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