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遺人(いびと)
私は木田拓美といいます。年は三十五歳で、ごく一般的なサラリーマンでした。内勤の事務員です。
とりたてて秀でた才能もなく、内向的な性格で趣味もなく、またお付き合いをしていた女性などもありません。
ただ日々を、繰り返される同じ日々、しいて言うなら天気ぐらいが移ろっていくだけの日々を過ごしていました。
だからと言って、不満はありません。
むしろ変化の少ない、体がゆっくり気づかない速度でただ衰えていくだけの生活は安定しており、それはそれで有難いとさえ感じていました。
そんな私の生活に大きな、とてつもなく大きな転機が訪れたのは五年ほど前の秋のことです。
私には七十歳になる父がいました。
身内といえるのは物心ついた時から父だけだったのですが、その父が病に倒れ入院したのです。今まで一度も床にふしたことのない人でした。
私のために、生活のためにと必死で働いてくれた無理が今になってたたったのでしょう。
この日のことははっきりと、この瞬間にもありありと思い出します。
「……父さん」
開け放たれた病室の窓からは沈みかけの真っ赤な夕日が差し込み、また冷たくなりかけのしんとした空気が、私たちの距離を詰めるようにすっすっと入ってくるのでした。
ベッドで横になる父は、白いがちょっとすすけた天井の一点をじっと見つめています。
「……父さん、どこか痛むかい?」
なんと声をかけるべきか。このとき、私が父と再会するのは就職して以来のことで、もう十年よりも長い期間、会っていなかったのです。
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