生活保護と病院。

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生活保護と病院。

(四)生活保護  こうして浩輔は家業の酒屋を継ぐことにした。浩輔は酒が飲めない。だから酒のことは何も分からない。そこで退院したばかりの父親に尋ねながら働いた。  お金は食費と光熱費で消えていった。一方、酒屋での収入はほとんどゼロに近かった。酒屋なんて既に時代遅れなのだ。  父親は入院はしたものの何とか働くことはできた。だから酒の注文があるとバイクに乗って出かけていた。一方の浩輔は徐々に自分の部屋に閉じこもるようになっていった。  お客が来ても応対は父親が行った。浩輔は自室に籠もって資格を取る勉強を始めた。  先ずは宅建に挑戦した。  その間、食事なんかは八巻ホールの老人用の弁当を父親と一緒に食べるようになった。  浩輔四十歳、父七十歳になっていた。浩輔の預金通帳には五十万しか残っていなかった。  大学出の浩輔にとって宅建なんかそんなに難しい試験ではないように普通思うだろう。しかし、浩輔は何度も試験に落ちた。元々文学部の出身なのである。法律の知識なんか皆無であった。  やがて浩輔は自室から一歩も出なくなっていった。  間もなく預金は三千円しかなくなった。  浩輔は市役所へ生活保護の申請にでかけることになった。  市役所までは車ででかけた。もう自分の車は売ってしまっていて、父親が使っていた車を使った。  市役所は五階建てで建造したばかりの綺麗な庁舎であった。大きなロビーを入ると受付があった。その受付で用件を伝えた。  「生活保護の申請に来たのですが、どこへ行ったらいいのでしょうか?」  「それでしたら二階の福祉科です」  浩輔は階段を使って二階へ上がった。「福祉科」と書かれた看板の前で用件を伝えた。  「生活保護の申請に来たのですが」  福祉科の受付の女性の顔が曇った。それまで笑顔だったのが、何か鬱陶しい顔をして応対し始めた。  「生活保護ですか?あなたまだ働けそうですけど」  「いや、鉄工所に勤めていたのですけど倒産したのです」  「それでは審査がありますから、カーテンの向こうでお待ち下さい」  「審査?審査って何ですか?」  「あなたが保護に値するかどうかの審査です」  「僕、もう預金が三千円しかないんですよ。それで十分でしょう?」  「それをこれから審査しますのでカーテンの向こうでお待ち下さい」  福祉科の看板の前には確かにカーテンがある。ここで何を聞かれるのだろうか?浩輔は不安ではち切れそうになった。しかし、とりあえずは「分かりました」と言ってカーテンの向こうへ行った。長机と椅子が置いてあるだけであった。  しばらく待っていると、役所の人とは思えないような強面の男が現れた。  「福祉科の安藤と言います。生活保護の申請ですよね」  「はい」  「あなたは、何か病気か何かで働けない事情でもあるのですか?」  「いや、教師を十年間やってきて、その後鉄工所で働いたんですけど、鉄工所が倒産しまして、その後父親の介護なんかをやっておりました」  「お父さんはご健在なんですね」  「はい、でも認知症の一歩手前です」  「ふーん。ところで、お金は本当にないんですか?お父さんがいるようですけど、そのお父さんも無収入なんですか?」  「いえ、父には年金があります」  「お父さんは何をなさっていたのですか?」  「警察官です」  「それなら共済年金や。それで食べていけるでしょう。それからあなたは鉄工所が潰れてからハローワークなんかへ通って職探しはしたんですか?あなたの年齢ではまだ雇うところもあるように思われるのですが」  「(どこにも雇ってもらえないから来たんじゃないか)ありません」  「嘘でしょ。元教師だったら塾の教師とか色々あると思うのですが」  「私は社会科の教師でした。でも求人は英語や数学ばかりでした」  「どんな家にお住まいですか?」  「どんな家って---」  「一軒家ですか?アパートですか?」  「一軒家です」  「だったら保護は出せません。その家を売ったら生活できるじゃないですか?」  「家は酒屋なんです。売ると商売できません」  「商売してるのだったら手伝ったらいいじゃないですか?」  「あのー、今の小売り業界って知ってます?コンビニなんかの進出で売り上げもありません。お金にならないのです」  「あなたねえ、働く気はないのですか?働く気のない人に生活保護を渡していたら市の財政は破綻ですよ」  ここで浩輔は口ごもってしまった。働く気はある。しかし、いじめられるのは嫌だ。鉄工所でも学校でも散々いじめられてきたんだ。それに学校なんてブラックだった。そこで嫌な親なんかを相手していたので鬱病に罹っているかも知れないのだ。でも医者にかかるお金もないから来たんだ。そう思った。  しかし、福祉科の応対ってこんなに悪いのか?とも思った。それならばこのまま親父にたかってやる。こんな所二度と来るものか?そう思って言った。  「わかりました。二度と来ません。その代わりに申請用紙を下さい」  「申請用紙って何ですか?」  「勿論、生活保護の申請用紙です」  「そんなものありません」  「---」  「分かったらとっとと帰って下さい。忙しいんですから。それから仕事を探して下さい。お体は悪くないんでしょう?」  「いえ、鬱病の可能性があります」  「それを証明する医者はいるんですか?」  「いえ、医者には罹っていません」  「それでは話になりません。帰って下さい。ここまではどうやって来たのですか?」  「父親の車です」  「車を持てるんだったら生活するお金もあるはずです。分かりました?」   結局生活保護は受けられなかった。浩輔は気を落として家に帰った。その後、生活保護受給希望者をやり込めて追い出すことを「水際作戦」ということを知った。  しかし浩輔には働く意志はなかった。ハローワークにも通わなかった。  ある日、そんな浩輔を見かねた父親が注意した。  「頼むから働いてくれ。お前を大学まで出してやったんだからどこかに就職口はあるだろう。○○君も○○さんも働いているじゃないか」  この言葉で反って浩輔は焦り始めた。年齢は四十歳を超えている。結婚式の案内状も沢山来ている。「(俺は教師として十年間働いたんだ。親から散々言われ、上司からもパワハラまがいのことを何度も言われ、疲れ切っているんだ。鉄工所でも高卒の奴らにいじめられた。どうせいじめられるのだったら、俺はもう部屋から出ない)」そう思って部屋に閉じこもるようになってきた。  また、父親が「働け」というたびに父親のことも疎ましく考えるようになってきた。 そうして三年の月日が無情にも流れていった。もう就職しようにも履歴書の空白の期間をどうやって埋めるのか?とも考えるようになった。  そしてある日、浩輔は父親に付き添われて心療内科を訪れた。  (五)心療内科        その医者は不登校や引きこもりを治すことで有名な医者であった。また、父親も引きこもりの親の会があると聞いて出かけるようになった。  医者は浩輔が思っていたイメージとはかけ離れていた。浩輔は精神病院へ入れられると思い込んでいたからだ。  医院は町の中にあり、三階建てのビルの二階にあった。「生島心療内科医院」と書かれた看板のビルへ浩輔と父親は入っていった。  二階へ上がると待合室は混雑していたが、綺麗に掃除されていた。なぜかルノアールの模写が飾ってあった。  浩輔と父親が受け付けに保険証を出して用件を伝えると、「先ずはカウンセリングがありますのでカウンセラーのところへ行って下さい」と言われた。時を待たずに直ぐにカウンセリングルームに通された。  カウンセリングルームにはカウンセラーが待機していた。  「息子はかつて教員をしており、その後鉄工所なんかで働いたのですけど、鉄工所の倒産以来仕事もせずに部屋に引きこもりがちになってしまったんです。もう困ってしまって。私も認知症の初期段階で、これから生活をどうしていくのかなと考えたら気が気でないんです」  先ずは父親がそう告げた。カウンセラーはしきりにメモを取っていたが、父親に向かって言った。  「ここでは診断はできないんですけど、お父さんに言います。先ずは苦しんでいるのは本人だということを自覚して下さい。それから『○○君が結婚した』とか『○○さんが就職した』なんて言うのは禁句です。それで本人は焦ってしまって治療が長引くことになります」  「そうなんですか?誰それが就職したと言って発破をかけるのはいけないんですか?」  「はい、いけません。気長にやっていきましょう」  「気長にとは言いますけど、私も後何年生きられるか分からないんです。もう先のことが心配で心配で---」  「お気持ちはよく分かりますが、先ずは病気を治すことが先決です。恐らく何らかの診断は出ると思いますけど、よくなるまで気長にやりましょう」  そこへ浩輔が口を挟んだ。  「僕の病気は治るのでしょうか?」 「あなたは一種の鬱病ですね。それから発達障害もあると思われます。生島先生から薬が出ると思いますけど、気長に飲んで治していって下さい」  そんな話し合いが持たれて、やがてカウンセリングルームを出たら小一時間経ったところで医者に名前を呼ばれた。 「大山浩輔さん、お父さんと一緒に診察室に入って下さい」  そこで浩輔は父親と一緒に診察室へ入った。  「息子さんに聞きます。あなたにとって今一番大切なことは何だと思いますか?」  「そりゃ、仕事を見つけて働くことでしょう」  「いえ、違います。病気を治すことです」  「僕は病気なんですか?」  「鬱病の初期症状です。抗鬱剤を出しますから飲んで下さい。それから軽い精神安定剤も出します」  父親は浩輔が病気だと分かっても一向に性格が治らなかった。相変わらず浩輔に「早く就職して働け」とばかり言っていた。それが浩輔にはたまらなかった。  そうした中で浩輔の生活は一変した。一日中部屋に閉じこもって出てこれなくなったのである。
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