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逆行性タイムトラベラー
[一]
私の居る時代は、小説を書ける人が居ない。
だから、タイムトラベルをして彼と契約を交した。
三年間家に置いてもらい、書いた小説を提供してもらう代わりに、私は家事や買い出しをする。実際は私に出来る事ならば何だって良かったのだが――無関心で無頓着な彼は、殆ど私に興味を持つ事はなく、雑用ばかりだった。
彼の名前は、知らない。名前が分かっていると先入観が湧くかららしいが――さしたる問題もない為、気にした事はない。
私が彼について知っているのは、彼が小説家である事、彼が素晴らしい作品を書く事、彼が小説に対して熱意を持っている事。
そして、彼が冷たい人である事だ。
「多分これが、三年間最後の作品だ」
彼はそう言って、ゆっくりと息を吐いた。凭れられた回転椅子が軋む音さえ響き、もうキーボードを叩く音は室内に残されていない。パソコンからUSBメモリを抜き取ると、彼は座椅子に座る私に放り投げた。軽い、僅か数グラムの物体。それが、今はとても重たく感じる。
「三年間、ご協力ありがとうございます。まさか、期限ギリギリまで書いて頂けるなんて」
頭を下げ、USBメモリを握り締める。三年間の塊とも言えるメモリだ。
「ああそうか、明日が期日だっけ」
彼はなんて事のないように言って、椅子から立ち上がった。ゆらゆらと揺れる回転椅子を残し、伸びをしながら居間を出ていく。扉が開くと同時に、ひやりとした冷気が床をなぞった。時計が指し示すのは、深夜一時。正確に言えば、期日は今日の夜である。
ここ最近、睡眠時間を削っていたし、昼過ぎ、もしかしたら夕方まで寝るんだろうな、と察しがつく。三年間も居たのだ、流石にパターンが分かってくる。予想通り、彼は歯を磨いてくると、「部屋で寝てくる」と欠伸を一つしてから、顔を引っ込めた。短い廊下を抜け、すぐに部屋の扉が閉まる音が聞こえてくる。
「私も、休もうかな」
小さく呟き、居間に布団を敷く。潜り込んで、不意に窓を挟んだ先の月が目につく。大きな、まんまるの月。
――彼は、冷たい人だ。ずっとそこに居るのに、ずっと距離は遠く、ずっと無関心に見える。
彼が集中するのは、専ら仕事の執筆ばかりだ。彼の小説に対する熱意や姿勢はとても素晴らしいし、有難い事だから、私が口を出すべき事ではない。
けれども。これが、最後の日か。
そう思いながら、ゆっくりと目を閉じ――朝陽に照らされ、目を開く。
今日が最終日とは思えないような、変わらない風景。布団を片付け、さて今日は何をしようかと思考する。どうせ彼は朝に起きやしないだろうから、何かで暇を潰さなければならない。
「出掛けるぞ」
だから、この一言はあまりにも想定外で、目も口も開いたまま数秒固まったのは仕方のないことだった。「え、あ、きょ、今日は、お早いんですね?」
何とか絞り出した言葉に「ああ」といつの間にか居た彼は簡単に流す。そのまま洗面所に消えていくのを、つい目で追いながら立ち尽くした私は、漸く頭が追いついて支度へと身体を動かし始めた。
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