「私」という存在を確かめてくれ。

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

「私」という存在を確かめてくれ。

溶けていく。私の心も、体も。例えば午前三時、君の顔が溶けたとする。その時に君は何を思う? 多分、私は何も思わない。だって自分という存在があやふやなのだから。空気中に自分が粒子となって漂っても、きっと変わらない。そうだろう? 君は本当に君なのか、証明する術なんてあるのかな。あると答えるなら、教えて欲しい。生きる意味なんて容易い事かもしれないけれど、今の私にはそんな物は無い。誰もが持ち合わせている矜持なんて物が、今の私には無いのだ。それでどうやって『生きる』なんて事を証明しろと言うのだろう。それでも私は生きている。心臓は脈を打ち、呼吸をして、血液が流れる。私にあるのは、その事実だけが横たわっている世界。それは最早、死んでいるのと同格である。狂っている? そうかもしれない。人生なんてパズルのピースが一つ無くなっただけで、完成しないイラストの様な物だと、私は知っている。 『女子大生、交際相手を殺害事件』 その話題はセンセーショナルに報道された。テレビ、新聞、ネットニュース……。様々な媒体が祭りの様に騒ぎ立てる。容疑者はまだ二十歳。被害者は交際相手の男子大学生。真赤に血濡れになった死体の隣で寝ていた。死体を隣に呆然と立ち尽くしていた。死体を隠そうと返り血を浴びたまま、部屋から出ようとしていた。世間ではそんな噂が飛び交っている。真実なんてたった一つしかないというのに。テレビのコメンテーターが尤もなセリフを吐く。 「彼女は極めて自分勝手な理由で、彼を殺害したのでしょう」 「愚かな自分を、しっかりと反省して欲しい」 「死んだ彼の遺族の気持ちは、やり切れないでしょうね」 そして殺された被害者の父親からのコメントが発表され、祭りは一層盛り上がる。 「息子は、私には勿体ないほどの良く出来た子でした。最愛の一人息子を亡くした喪失感に耐えきれません……。彼は真面目で、成績優秀。何よりとても優しく、真っ直ぐな子でした。何故、こんな事になったのか……。犯人の女に騙されていたとしか思えません。私は彼女を許せそうにない。」 そのコメントが世の中の人の胸を打つ。一層、容疑者の彼女は世間で凶悪犯のピエロ扱いだ。 「普段から一人でいて、何を考えていたのか……」 「あまり話したことがないので、分かりません」 「彼氏は居ると聞いたことがあるけれど……。若い男の子ではなく、おじさんと良く一緒にいるところを見かけました。」 彼女の学友はそうコメントを残している。味方は何処にも居ない。けれど不可解なことに未だ、容疑者のコメントは何も発表されていない。当事者の言葉は黙殺されているのか、沈黙なのか……、何も分からないまま。時間だけが過ぎていき、現時点では2週間が経過している。報道だけが過熱して、事実なんてどうでもいい事の様だ。 「この事件を担当します、東野 晃です。よろしく」 「……よろしくお願いします」 「まず聞きたいのが、この資料の写真や文言に間違いは無いかな?」 目の前の几帳面そうな男が、私に問いかけた。部屋は薄暗く、粗末なテーブルを挟んで置かれたパイプ椅子に、私は座らされている。男は目の前の机に書類と写真をテーブルに広げた。それには真赤に染まった男の肢体。 「はい。私が、北川一希を殺しました。」 かちゃり。私の手錠のチェーンが、擦れる音を立てる。きつめに纏わりつくそれは、呪いの様に私の手首を赤く染める。対面の男は、深い溜息を吐いた。 「一体、どうして……。君は、北川を殺したんだ?君たちは恋人同士だったと聞いているよ。 喧嘩か? 浮気か?」 「いいえ。私は一希を、誰よりも愛しています」 「一体どう言うことだ? 誰よりも愛しているのならば、殺してしまうなんて発想には至らないだろう?」 「……東野さんには分からないですよ」 失笑と共に、返答を返す。この男に、何が分かると言うのだろうか? 私と一希の関係なんて、一生分かるはずがない。理解すらしようとしていないのだから。この目の前の男に、義理を通す必要を全く感じなかった。 「南沢さん。口の利き方には気を付けたほうがいい。君は容疑者で、俺は検事だ。どんな理由があろうとも、君はもう、犯罪者だ」 苦々しく、東野が言葉を投げつけてきた。『犯罪者』だったとしても一希が死んだ今、私の人生には何の意味も無いというのに。それを盾に正論や正義を振りかざされるのは実に不愉快だった。 「犯罪者は事実を話す義務があると、言いたいのですか?」 「そうだ。俺には検事として職務を全うする義務があるんだ。そして君が不本意だったとしても、俺に真実を話す義務がある」 「東野さんは、真実を知りたいですか?」 「もちろんだ」 「では、私が何故一希のことを好きだったかという事も気になりますか?」 「……事件と関係があるのであれば」 「それは、運命だからです」 真面目に返答した私に、今度は東野が失笑を返してきた。 「運命? 君は随分とロマンチストなんだね」 「ロマンチスト? ……そうですか。それでもいいです。でもそのくらい、私達の関係は奇跡としか言いようがありません。その事実だけが、今回の事件の全てです」 そこまで話して私は口を噤む。その様子を見た東野はため息をつき、その身を私の方に乗り出しながら言葉を発した。 「それが理由で殺人事件が起きた事を、納得出来る検事は居ない。南沢さん。あまり君は話をしたく無いのかもしれないが、我々は正しく事実を把握する必要がある。……話してもらおうか。ロマンチストの君がそこまで言うのであれば、被害者と君はさぞ素晴らしい関係なんだろう」 蛍光灯の切れかかったこの部屋の灯りは、チカチカと目眩を起こさせる。私は意識までも、空に渡ったであろう一希に持っていかれそうになりながら、溜息を吐いた。鉄格子のついた窓から見える空は、曇天だ。分厚い雲は私の心にも、影を落とした。私という存在は何故、一番大切なものを失ってまで存在しているのだろう。自分の顔が半分溶けた様な感覚は、この先一生感じるのだろうか。目の前の男、東野の顔を見る。彼は私と一希の事を知って、何を思うのだろう。何も分からないまま、私はもう一度ため息を吐いた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!