1.逃げられた!①

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 どーせ、買わないんだろ。つまんないことで、煙草に走るなよ。嫌なことあって、ちょっとぐれようとしてるのか? もういい歳した姉ちゃんだろ。せっかくいい雰囲気持ってるんだから、今更、こっちの煙にはまることないぜ。  内心そう思いながら、自販機前で迷っていそうな彼女に声をかける。 「そこ、いい? 買ったならどいてもらえる」  さっさとここから離れな。ここで思いとどまっておきな。そんな気持ちだった。  やっと彼女が顔を上げる。……どうみても『怯えている顔』で、英児はそんなところもちょっとショックだった。  やっぱ、俺。おっかない顔してるんかな。車高をギリギリまで下げたマフラーぶっとい車に乗っている男なんて。綺麗なオフィスで洒落た男に囲まれている姉ちゃんには、薄汚れて見えるんだろうな。  案の定、彼女は英児と目を合わせることもなく、背を向けて去っていった。  ち。まあ、いいか。買わずに済んだみたいだな。一人ため息をついた。  その時、英児は彼女が去っていく空気にはっとし、つい……去っていく背中を目で追ってしまう。 『きちんと女子』の甘い匂いだけじゃなかった。疲れ切って汗をかいてこなれた肌の匂いが混じっていたから。英児が女を濃厚に感じる瞬間。  もうすぐ桜が開花しそうな雨上がりの夜。むっとしたそよ風にのって、去っていく彼女の匂いがまだ届く。淡いグリーンのコートの裾を翻し、風にそよいだ横髪からちらりと見えた彼女の白い首筋に、色香があった。
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