最後の女

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 持ち重りのする包みを抱えて、茜は約束の駅に降りた。秀一からの連絡には時間の余裕があったので、界隈でウィンドウショッピング中だ。普段とは少し違ったウキウキ感を、誰かと分け合いたい。分け合うのは待ち合わせた当人とだから、自分の中に閉じ込めた感情が足取りに出る。  秀さんのメールだと、もう行く店は決まってるみたいだった。どんなとこ連れてってくれるんだろ。少しはロマンチックだといいなあ。  滅多にないお出かけなのだからと、仕事を終えた後に洗面所で気合を入れてメイクを直した。職場の先輩に借りたコテで髪先を遊ばせると、華やかな表情になった。 「あら、綺麗ね。どこかに行くの?」 「結婚記念日なんで、主人と待ち合わせなんです」  誇らしくて、ほころばせた顔を見せた。  一緒にいたくて、結婚したいと言った。生活していくってことが、どんなことかなんて気にもしなかった。頑張って片親のまま娘ふたりを育ててくれた母の気持ちとか、秀一の両親が長男をどう捉えているかとか、茜には今でもきっと理解なんてできていない。理解は多分、しなくても良いのだ。理解していないということを自覚していれば――それは多分、秀一と茜当人同士にも当て嵌まることだ。  もう一年、まだ一年。秀さんと一緒にいるのはもっとずっと長い時間になるんだから、この記念日はほんの入り口。  ずっと長い時間を過ごしたいと思える相手と巡り合い、一緒に生活をしていくうちに相手が皮膚の一部のようになる。皮膚の表面なんて普段は意識もしていないが、熱さや痛みや心地良さを感じる時、自分がそれに覆われていると気がつく。そんな風に馴染むまで、どれだけ一緒にいることが必要なのだろうか。  待ち合わせ場所は改札口の横。メールでやりとりしながら居場所を変えるなんて芸当のできない男は、時間と場所を決めて動く。茜が駅に到着すると、見覚えのある広い肩が後ろ向きに見えた。  ほら見てよ、あの頼り甲斐のありそうな肩の線。あれ、私の旦那様なんだよ。あんな仏頂面してるけど、私以上に私のことを考えてくれる、自慢の旦那様。  小走りに走り寄って腕に絡みつくと、仏頂面はますます仏頂面のまま、ものも言わずに歩き出す。手に持った厚みのある紙袋には、フローリストの名が入っている。 「どこに連れてってくれるの?」 「会社の女の子たちが決めたとこだ」 「え、秀さんも知らないとこ?」 「俺にそんな芸があると思うか」 「……思いません」  予約した店は、駅前の賑わいから少し外れていた。時間前に到着したことに安堵しながら扉を開けると、すぐにテーブルに案内される。給仕が椅子を引いてくれる店など茜ははじめてで、緊張した面持ちで座っている。 「秀さん、その荷物何?」  クロークには預けなかった紙袋を、茜は指差した。 「メシ食ったら、見せる」  食前酒をペリエに変えてもらった茜と、作法はわからないからと店任せにした秀一は、向かい合わせでメニューを広げる。 「うう……メニュー広げても、味の予測がつかない……」 「悪いな、俺もだ」  あーでもないこーでもないと首を傾げあい、結局ウェイターに相談して見繕ってもらったりする。もの慣れたスマートさはなくとも、知らないことを堂々と知らないと言える秀一は、逆に頼もしく見えた。 「秀さんのお皿もおいしそうだなあ。こういうとこって、食べ物シェアするとマナー違反?」 「旨いものを分け合って、マナー違反なんてことがあるか」  無造作に自分の皿の肉を切り、茜の箸でつまむように言う。マナーを気にした茜がウェイターの顔を確認すると、微笑んだ肯きが戻ってきた。  ゆっくり食事を終えて、茜は小さな菓子をサーブしてもらい、秀一は食後酒を摂らずにコーヒーなんか飲んでいる。どうせ翌日も平日である。 「入試準備があるんなら、無理して弁当作らなくてもいいぞ? 去年まではなかったんだから、昼飯は若い奴等と一緒に買いに行ったってかまわないんだから」 「うーん。センター入試じゃなくて、AOで行けるかなあと思って。それなら秋に終わるし」 「秋? 浪人生で秋に終わる受験があるのか?」 「うん、高校のときの先生にも相談してみたり。それにセンターの頃は、それどころじゃないかも。でも入学して半年は、休学するようかな」  言っている意味が、半分もわからない。 「休学して、どうしようってんだ」  茜の顔が、晴れがましく輝いた。 「えっとね、三月の終わりに排卵があって、四月には月経がありました。四月の終わりに排卵があって、今月の月経がまだです」  今現在、五月末だ。ゲッケイガマダデスの意味が上手く咀嚼できなくて、秀一は要領を得ない顔になる。 「今月来てるはずの生理がまだ来ないんだよ、秀さん。予定の日から、今日で一週間」  セイリガコナイ。それが俺の期待通りの意味なら。秀一の鼓動がひとつ、大きく打った。 「日曜日にチェッカー買って、一緒に見てね。お待たせしました、秀さん」  聞こえてくる茜の声が、遠くでぼやける。頬を抓ってみたいくらいだ。 「ね、聞いてる? 聞こえてる?」  無邪気に秀一を見つめる茜を、テーブル越しに抱きしめてしまいたい。握った拳に思わず力が入る。 「……本当か」 「嘘吐いてどうするの。ねえ、秀さん……」  ああ、大声で叫びたい。そうして茜を抱えて頭といわず顔といわず、もみくちゃに撫で回してしまいたい。けれど秀一の理性はそれを必死で押しとどめ、テーブルの上の茜の手を握っただけだった。 「ありがたい」  声が、身体の奥から絞り出た。  会社の女の子たちからだと袋ごと渡した花を、茜はテーブルの上に持ち出した。小さなバスケットのアレンジは、桜色のミニバラを主体に青い小花と黄色の蕾を配した丸い形だ。 「出すなよ、こんな場所で」 「きれいー。いろんな意味でお祝いされてるみたい」  にこにこと笑う茜は、自分が抱えていた包みを秀一に差し出す。 「ガラスにエッチング加工してくれる工房が、資料館の近くにあるの。開けて」  人前で包みを開ける習慣なんて、今まで持っていなかった。 「プレゼントはすぐに開けて、喜ぶのが礼儀でしょう?」  礼儀とまで言われては、開けないわけにいかない。 「こんな重いもん、何もここまで持って来んでも」 「今日受け取ったんだもん。中身はね、期待しないで」  中が酒なのは、形と重みでわかる。きっと大切なのは、そこに彫刻された文字だ。 『I love you until the day the paper is to diamond』  流麗な筆記体で記された文字の最後に、見慣れた茜の文字の書名だ。 「結婚一年目って、紙婚式なんだって。六十年目でダイヤモンド婚式」 「六十年後に生きてたら、えらいこっちゃな」  おどけてみせながら、胸が詰まる。上ってくる感情を飲み下しながら、テーブルに隠れた茜の腹を思う。そこに宿っているだろう未来は、あきらめかけていた未来だった。  紙がダイヤモンドになるまで、あなたを愛してる。  少し前の秀一ならば、思い込みの激しい若い女が恥ずかしげもなくと、苦い顔をしていただろう。けれど茜はきっと、そんなことになんて気がついているのだ。人は変化し人間関係も変化するもの、それでも尚且つ愛したいという希望なのだろう。  ――ガンだろうが脳溢血だろうがアルツハイマーだろうが! 病院に見放されるような状態だって、私だけは最後まで秀さんと一緒にいるの! そのために奥さんになったんだから!  ああそうだな。そのために結婚したんだったな。俺もおまえがどんな状態になっても、隣にいると約束しよう。  ウェイターを呼んで勘定を頼むと、店主らしき男が顔を見せた。 「お楽しみいただけましたか。ご夫婦の記念日か何かで?」  夫婦と名乗ったわけでもないのに夫婦だと言われたのは、はじめてだ。 「予約した者が、何か言いましたか」  秀一の問いかけに、店主は首を振ってみせた。 「いいえ。申し訳ありませんが、はじめはどんな関係か迷いました。けれど、おふたりは同じ空気を纏っておられます。ですので確信いたしました。そして花とお酒、これは何かの記念日なのだと。お祝いであれば当店からの小さな贈り物として、食後酒をサービスさせていただきたいのですが」  店主からの提案に、茜が嬉しげに頷く。 「結婚記念日なんです。お言葉に甘えて良いですか」  同じ空気を纏っていると、外からもそう見える。これがどんなに誇らしいことかは、あとで秀一にだけ話そう。茜は腹にそっと手を当てた。  秀さんだけじゃないの、私も望んでるの。どうぞどうぞ、私たちの希望と誇りを増してくれる結果が出ますように。 fin.
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