最後の女

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 後ろを向いてストライキ中の茜は、洗い物を放棄している、らしい。テイクアウトの弁当ならばゴミ袋に突っ込んで一丁あがりだが、皿と茶碗が出てくる今、そうは行かない。どっこいしょと腰を上げて、秀一は食器をシンクに運んだ。茜の後姿を一瞥して、スポンジに洗剤を含ませる。まったく、しょうがねえなあってなもんである。そこで拗ねている茜を、どうすることもできない。  ことの起こりは、茜が海に行きたいと言い出したことだった。近場で良いから、ふたりで海に行こうと。 「海ぃ?  混んでんじゃねぇか?」  秀一の第一声は、それだった。 「そりゃ、混んでるけどさあ。せっかく夏なんだし、お休みの日に出かけること、少ないし」  確かに遊園地だ映画だと出かけることは少ないが、茜の買い物にはつきあっているし、ごろごろ寝ているわけじゃない。 「お盆休みは秀さんの実家に行くんだから、それ以外にどこか行きたい」  秀一が最後に海に遊びに行ったのなんて、十五年も前の話だ。確か、会社の人間たちと連れ立って行った記憶がある。日に焼きすぎて、大変な目にあったような気がする。 「……やだよ、日に当たると疲れるし」 「えー?  年に一回くらい、水着着たってぇ」  水着なんて近場のプールで着ればいいじゃないかと、秀一は思う。電車で行ける範囲で、子供から中年(さすがに、老人はいない)まで遊べるプールが、いくつかあるのだ。もっとも、秀一はそれも億劫なのだが。 「ねええ、秀さん。海行こうよー、うーみー」  背中から秀一の首に腕を回した茜は、小さな子供みたいに肩を揺すった。 「友達と行ってくりゃいいじゃねえか」  思いついたことは、秀一から考えれば、とてもいいアイディアに感じた。何もひとりで勝手に行けと言っているのではない。時々食事したり買い物に行ったりしている友達は、いるはずだ。そういう相手と遊びに行くことに、秀一は不愉快を感じてはいない。楽しめる友達と、一緒に楽しんでくれば良いのだ。まさかそれが、茜を拗ねさせる原因になるとは思わなかった。 「なんでよ。秀さんと一緒に海に行きたいのに」  ぷっと膨れた茜は、修一の首から手を離した。 「疲れんだろうよ。若いヤツ同士で行って来い」  秀一としては、殊更に年齢の違いを強調したわけじゃない。自分はつきあわなくても、楽しんできて良いのだと言ったつもりだった。 「秀さんと行きたいって言ったのに。そんなに一緒に海行くの、イヤなんだ……」  一緒に行くのがイヤなわけじゃなくて、遠くまで出かけていって疲れるのが、イヤなだけだ。けれども茜はもう、半分くらい拗ねの体勢に入ってしまっていた。唇を尖らせたままテレビに向き直り、秀一のほうを見ようとしなくなった。  洗い物を済ませた秀一が座卓の前に戻ると、茜は膝を抱えて顔を埋めていた。眠くなったのかと思っていたら、くすんと鼻をすする音が聞こえた。 「おい」 「いいもん。秀さんは私となんて、遊んでくれないんだもん」 「そんなこと言ってないだろ」  茜は顔を上げずに、ぐずぐずと続けた。 「みんな彼氏と海に行くって楽しそうなのに、私は一緒に行ってもらえないんだ……」  みんなってのは、周りのうちの何人かって意味だ。全員が全員恋人がいるわけじゃないし、恋人がいても海に行こうなんて話にならないカップルだって、少なくはない。茜と仲の良い友達が、彼氏と海に旅行に行くと聞いて、羨ましくなっただけだ。泊まりでなんて提案したわけじゃないし、普段身軽に買い物につきあってくれる秀一なら、簡単に一緒に行ってくれると思っていた。それなのに、億劫そうに拒否されて、友達と一緒に行けなんて言う。自分が盛り上がった分、がっかりしてしまったのだ。  顔を上げた茜の鼻の頭は、赤かった。  そうか。この年頃なら、確かに夏には何回か、海に遊びに行くのかも知れないな。今までの夏にも、彼氏と海くらい出かけていただろう。結婚してしまった茜は、友達から遠出を誘いにくい相手になったかも――  秀一は小さく溜息を吐いた。もしもその楽しみを、俺が茜から奪ってしまっているのだとしたら。一日くらい、うんざりする海岸に座っているのくらい、我慢してやるか。 「日帰りで、カンベンしろよ」 「一緒に、行ってくれるの?」  その顔を見たら、もう取り消しなんてできなかった。 「嬉しい! 秀さん、大好きー!」  抱きついて頬をすり寄せる茜を胡坐の中に招き入れながら、若い母ちゃんを貰うのも楽じゃないと、秀一は心の中で呟く。今週中に茜が購入してくるだろう水着のデザインだけでも、あんまり派手なものにならないように言い聞かせなくてはならない。
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