最後の女

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「ねえ。イカってフォークリフトで持ち上げるほど、重いものだった?」 「あっちにはイカのメリーゴーランドがあるぞ、ほれ」  フォークリフトの上に干されているイカと、回転しながら干されているイカ。持って帰ってもバレなさそうな中くらいの混雑だ。 「たこ焼きにイイダコ丸ごと入ってるって!」 「車じゃなきゃあ、メヒカリの串焼きでビールが旨いだろうな」 「ホタテ串もあるー。うう、美味しそう」  歩き食いの誘惑に、持っていかれそうである。ここで負けては、当初の楽しみが半減してしまう。潮の匂いに乗った醤油の匂いだけで、ご飯三杯いけそうだ。 「醤油の焦げる匂いって、なんて吸引力なの」 「日本人のDNAに組み込まれてんだ」  回転寿司の店を覗き、レストランのメニューを見比べ、茜は腕を組んで考え込んでいる。 「おい、駐車場に観光バスが入ってきたぞ。席が埋まる」 「あ、じゃあやっぱりさっきの店! アンキモとウニ、両方とも乗っかってた!」 「はいはい」  茜の決定に従い、秀一は後ろをついて歩く。確かに魚は好きだが、あんなに考え込むほどのこともないじゃないかと思いながら。どうも、男の楽しさと女の楽しさは違うらしい。男は口に入れて旨いと思えばオーライだが、女は食べる前の期待が旨いようだ。(よわい)四十三にして、今更ながら違いを面白く思う。この違いを面白いと思うか面倒ととるかは、当然一緒にいる相手に拠るものである。そして今までの秀一についてだけ考えれば、すべて「どうでもいいじゃねえか、面倒臭え」であった。多分若い頃は、それを口に出して言っていた、気がする。  宝石箱の蓋を開けたみたいな色合いの、美しく盛り付けてある丼だ。サーモン、マグロ、ブリ、エビにイクラ、緑美しい大葉の上に乗るウニと、ほっこりした色のアンキモ。 「ああ、食べるのもったいないっ! お味噌汁もエビだー」  もったいないと言いながら、茜はいそいそと醤油にワサビを溶いている。 「秀さんのニギリも美味しそー。そっちにはエンガワもあるんだ……」 「食うか?」 「もらっていいの? じゃ、秀さんもこっちのやつ、一口食べて」 「足りなきゃ追加すりゃいいんだから」  別注文した煮魚に箸をつけながら、嬉しそうな茜が可愛い。若い分健啖で、その細い身体であれ食べるこれ食べると旨そうに口に運ぶ仕草が、また可愛い。枯れた爺さんが若い娘を食事に誘って、ただ食べさせるだけで満足すると聞いたことはあったが、なんとなく理解できる気がする。いや、俺は断じて枯れてないぞ、と秀一は秘かに思う。食事は本能に忠実な欲望であるから、性欲に通じるのではないかとも思うのだが。  エビの頭で出汁をとった味噌汁の深い味を楽しみ、漬物の歯ざわりで食感を変える。よくぞ日本人に生まれてきた、と嬉しく思う食事だ。 「ここでお腹いっぱいになっちゃうと、さっきのたこ焼き……」 「買い物してから考えろ」  食事を済ませて上機嫌の茜と店を出ると、市場の中は大賑わいだ。観光バスに吐き出された人たちが、通路を動き回っている。 「えっと、石原さんの家がふたり、平田さんの家は三人っと」  買出す魚の数を指折りながら、茜は店舗を覗いていく。 「サンマは箱で買おう。干物類と海藻は日持ちするから、多くていいよね……あ、殻つきホタテ!」  すっかりポーターと化している秀一は、黙ってあとをついて行く。魚屋でも開店するんかいと突っ込みたいところだが、調理するのは茜だし、無駄な食材を買うような性質でもないので、持たされるがままである。 「この刺身ね、このままラップして冷凍できるよ! 自然解凍してペーパータオルでドリップ吸ってね!」  店員に声をかけられて小首を傾げて聞くさまは、いっぱしの主婦の顔だ。まだ成人したばかりなのに、買物ぶりが板についている。 「帰り、お母さんのとこに寄っていい? お土産にホタテ置いてきたい。私だけ贅沢してるみたいで」  こんな小旅行ですら贅沢だという環境で育った茜に、もう少し他人の生活を見せたほうが良いのかも知れない。  買出したものをクーラーボックスに収め、次は風呂だと大浴場を昼間だけ使わせるホテルに車を乗り入れる。 「かじめ湯っていうんだって。秀さんもピカピカになってきてね」  はしゃぐ茜と一時間後に待ち合わせ、秀一も服を脱ぐ。美肌もへったくれもないから、身体がほぐれれば入浴は終わってしまう。海藻のエキスを溶かし込んだ湯を、とろりと肌に纏った気がする。茜はどうせ長風呂を楽しんでくるのだろうからと、休憩室の隅でごろりと横になり、うとうと居眠りを楽しんでいるうちに、本格的に眠りに入っていたらしい。 「秀さん、疲れちゃった?」  そんな声に驚いて、辺りをきょろきょろと見渡した。 「へ? ああ、ちょっと気持ち良くなった。帰るか……って、なんで脚出してんだ」 「お風呂であったまったら、タイツ暑くて。車で帰るだけだから、寒くなんないし」  この冬のさなかに、生脚のショートパンツ。それがどんなに目立つことか知らんのか、このバカは。 「脚、しまって来い」 「なんで? もうパーキングエリアと実家くらいしか……」  そのパーキングエリアには、涎を垂らさん勢いで茜の脚を見る若い男が、うじゃうじゃしているのだ。夏ならば大勢の中に紛れてしまっても、今時期にそんなヤツはいない。 「なんでもいいから、しまって来い!」 「秀さん、お腹すいた」  都内に入る前のパーキングエリアの手前で、茜は秀一に空腹を訴えた。帰宅しても食事の支度ができているわけではないので、外食するつもりではいたのだが。 「さっき市場で買ったホタテ串とたこ焼き、残ってんぞ」 「んーんっ。今日はもう海鮮、飽和状態。炭酸のジュースとお肉が欲しい」  どちらにしろ休憩はとるつもりだったので、迷わず車線を変更する。 「肉? 焼肉みたいなの、あるかなあ」 「フランクフルトがいい。焼いてるよね、きっと」  パーキングエリアは少々混雑しているらしく、スピードを緩めつつ進んだ。 「フランクフルトならここにあるぞ?」 「いつ買ったの?」 「買ってない。ズボンのチャック開ければ出てくる。ただし、噛むなよ」 「エ、エロ親父ぃ!」  小旅行の家族サービスは、成功したらしい。
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