最後の女

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「ゴンベがね、昨日から帰って来ないの」  秀一が一緒に住んでいた猫は、長いこと名前がなかった。秀一の部屋に入ってくる猫は一匹しかいないし、別に呼びかける都合もなかったので、チビすけとか猫とか毛玉とか、その時々で呼び方が変わっても問題ない。だから「ゴンベ」は「名無しのゴンベ」が約まったもので、今はそれが定着している。 「もともとノラなんだから、別に問題ないだろ?」 「でも、今まで毎日帰ってきてたのに」 「家空けてた時なんて、わかんねえだろうが」 「ごはん、ちゃんとなくなってたもん」  窓を一部改造して、猫の出入り口を作ったのは秀一だ。古いアパートだから、大家の許可は簡単だった。最近は古いアパートに入居したがる人は少ないから、秀一が出たって次の借り手なんて見つからないと、大家も知っているのだ。 「探してこようかな」 「猫なんて、どこを探すっていうんだ」  帰ってきたければ、勝手に帰ってくる。もともと怪我をした野良猫を保護したら、居ついてしまっただけのことなのだ。居ついてしまえば情も湧くし、一方的な話し相手になるので、そのまま一緒に暮らしている。それだけのことだ。 「迷子になってるのかなあ」 「ま、今に帰ってくるだろ」  窓ばかり気にしている茜の隣で、発泡酒のプルタブを引く。頭の中は翌日の現場の様子だったりする。 「……金魚」  ふいに思い出して、秀一は呟いた。 「会社の金魚?」  秀一の会社に、誰が持ってきたのか小さい水槽があった。中には、金魚が一匹。いわゆる「お祭り金魚」で、金魚すくいをした誰かが家で飼うのが億劫で、会社に持ってきたものだと思われる。 「うん。昨日、死んだ」 「え? だって、あんなにおっきくなって……」  お祭り金魚を育てたことのある人なら、知っているだろう。金魚すくいの金魚は、上手く生き長らえさせれば驚くほど大きくなる。 「水換えたあと、水槽を外に出しっ放しで現場に出ちまった。この暑さで一日中ひなたじゃ、金魚も煮えるよな。可哀想なことしたわ」 「誰も入れといてくれなかったの?」 「気がつかなかったんだと。まあ、出しっ放しにした俺が悪い」   別に、秀一が持っていった金魚じゃないし、世話の当番でもない。気がついたら置かれていた金魚の水が汚れているのを換えてやったのが最初で、藻がついても餌が切れていても言うだけで世話しない他の社員たちに任せていては死んでしまうから、秀一の時間のある時に世話をしているだけだ。 「あの金魚、持ってきたのは立川さんなんだよね」 「そうなのか?」 「本人がそう言ってた。会社の癒しにしようと思ったとか何とか」  立川というのは、二十代の同僚だ。もう入社してから六・七年の中堅社員で、調子の良い男だ。おそらく夜店ですくってしまった金魚を川に流すこともできず、会社に持っていったに違いない。 「立川の野郎、水槽が邪魔だとか言いやがってたぞ」 「綺麗な水は風水的にどうとか……」  いい加減なことを言いやがってあの野郎、とか秀一は思うわけである。温い水の中にぷかりと浮かんだ金魚に手を合わせて、花壇の隅に埋めているとき現場から帰った立川に金魚を埋めていると言ったら、平野さんの相棒がいなくなって寂しいですねえ、なんてけろっとした顔をしていたのだ。 「秀さんのこと好きになったのって、金魚だった」  日本語として、文脈のおかしなせりふだ。 「入社してすぐ怖い顔のおじさんが、腕をびしょびしょにして事務所に入ってきたの。水槽の濾過器の調子が悪いから、金魚入れとくバケツ貸してくれって」  そんなことがあった気がする。 「誰かが現場用のを使えって言ったら、薬剤がついてるかも知んねえって大真面目な顔で」  茜は秀一の肩に、ぺたんと寄りかかった。 「その時にね、いいなあって思った。それまで秀さんって見た目も怖いし喋ってくれないし、子供とかペットとかも鬱陶しいって言う人なんだろうなあって思ってたから、会社の人たちがいい人だよって言っても、怖くて話しかけられなかった」  茜が入社してきた時、どうせすぐに入れ替わってしまう若い娘が入ってきたと、顔を覚えようとも思わなかった記憶は、確かに秀一にもある。 「そのすぐあとだよ、ゴンベの捕獲劇見たの」  茜が入社した四月の終わりごろのことだ。  秀一が現場から戻って会社に車を入れようとした時、道路の隅に毛玉が見えた。よく猫が轢かれている場所なので、潰される前に路肩に退けて役所に引き取り依頼してやろうと思ったら、毛玉はまだ動いていた。片足が潰れているが、立ち上がろうとしている。放っておけば死んでしまうとか、野良猫ならば片足では不自由だなんて、咄嗟に考えたわけじゃない。今病院に連れて行けば助かると、そう判断しただけで秀一は動いた。  黙ったまま事務所に入り、連紙用のプリンターに繋がっているストックフォームの箱から、中身を掴み出す。 「ちょっと平野さん、その箱……」  事務のお姉ちゃんの言葉は無視することにして、ダンボールを持って道路に走ると、猫は懸命に動こうとしていた。手を出そうとすると、牙を剥き出していっぱしに威嚇する。死んじまうぞ、と猫に言い聞かせたところで言葉が通じるものでもなく、自分の首から抜いたタオルを敷いた箱に猫を押し篭めた時には、秀一の腕は掻き傷から血が流れていたし、作業着は猫の血と毛だらけだった。そのまま獣医に連れて行って、保険の利かない獣の医療費を払ったのだが、茜はそれを一部始終見ていたらしい。  その数日後に傷がひどく化膿した秀一は、自分も病院で山ほど抗生剤を貰わなくてはならない羽目に陥ったのだが。 「私、お父さん知らないし、怖そうな男の人って本当にどうしていいかわかんなくて。だけど、秀さんは怖そうなだけで怖い人じゃなかった。別に優しいことも言ってくれないし、他の人みたいに女の子にお菓子買ってきてもくれないけど、あれやれこれやれって指図がましいことも言わない。いいなあって」  黙ってテレビを見たフリをしているのは、照れくさいからである。秀一はこういうとき、どんな顔をして良いやらわからない。 「私も金魚とか猫みたいに、秀さんに助けられたいって思った。金魚、秀さんが面倒見なければ、もっと前に餓死してたと思う」  くるりと茜の腕が、秀一の首に巻きつく。 「秀さん、大好き」  答えようのない言葉に、秀一は口の中で苦虫を噛み潰す。俺もだなんて言い返せるような自分ではないし、そこでロマンチックに抱き寄せるような芸もない。 「私も、ゴンベと同じ?」 「何がだ」 「私も懐いて居ついちゃってるから、結婚してくれたの?」  仕方なく、茜の背に腕を回す。返答に困って、いっそのこと身体で誤魔化してしまおうかと思った時に、猫用ドアから猫がするりと入ってきた。 「ゴンベ! 心配してたんだよ! 夜遊びなんかして、悪い子ね!」  茜の気が逸れて、秀一は安堵の溜息を吐いた。あのまま問われれば、あとから頭を抱えて転げまわるような恥ずかしい言葉を引き出されていた気がする。  ゴンベが他人の家で飼われることになっても幸福そうで良かったなって祝福できるが、茜が俺以外の人間と住みたいなんて言ったら嫉妬に狂うぞ、俺は。  その程度に秀一は茜に執着しているし、帰宅して茜が迎えてくれるのが嬉しい。そしてそれを守るために、前の結婚の時に失敗したあれこれを若干ずつ修正していたりするのである。
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