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春、桜花爛漫の再会
稲葉ふわりは兎の獣人だから、身体は小さくとも走ることは得意中の得意だと思ってる。
ほんの仔ウサギの頃から好奇心旺盛で、ぴょんぴょん跳ね回っては危険なところに飛びだして家族の肝を冷やし、世話をやかせていたらしい。
だからグランドから裏門へ向かう桜の並木道まであれだけの距離が開いていたら当然逃げおおせると思ったのだ。
「待て」
しゃにむに駆けてきた彼は、少しだけ苛立ったような声色でふわりを呼び止めてくる。しかしこうも本気になって追いかけてこられると、逆に怖ろしくて足を止めることができなかった。ふわり目掛けて一直線に向かってくるということは、きっと何かしら気が付いたということなのだろう。
相手は古来より兎を狩ってきた狐の獣人で、体格もしなやかで強靭、そしてとにかくすばしっこい。これはもう魂魄に刻まれた記憶から、兎を見たら追いかけずにはいられないのかもしれない。
負けじと速度を上げたふわりの細くとも筋肉が程よくついた脚がグラウンドの隣の並木道を蹴り踏みしめる度、地面に振り積もった白い花びらが舞い上がる。
ところがどうしたことだろう。
視界を黒っぽい影が一瞬遮り、気がついた時にはふわりはもう、桜の花びらがはらはらと舞い落ちる用具倉庫の前に追い詰められ、逞しい彼の腕の中に力強く囚われていた。
「掴まえた」
彼は一学年上の先輩で、サッカー部の花形選手。流石に現役ストライカーの足の速さに帰宅部程度の走りが叶うはずもなかった。強豪サッカーチームの部員で質実剛健、眉目秀麗な彼は校内でも目につきやすい存在で同性からの信頼も女生徒からの人気も高い。そんな彼の姿を同じ男として眩しく、遠巻きに眺めることは出来ていた。
しかしふわりはこの春高校に入学したばかりな上、学年も違う。運動部にも属さず彼との接点のない平凡なふわりのことなど、彼の方から認識できるはずもなく、そもそもこれっぽっちも気に掛けてはいないと思っていたのだ。
しかしなぜか今日、グランドでサッカー部の仲間とランニング中の流泉と目が合ったら、スパイクで土を蹴りあげながらものすごい勢いでこちらに向かってきたから思わず逃げ出してしまった。
それがついさっきの出来事。
(僕なんで逃げ出したんだろ? この尻尾と耳の色で、この制服なら絶対僕が彼女だってわからないはずなのに)
「君、あの時の子だよね?」
嘘つくことが苦手なふわりは耳をびくっと震わせ、小さなおしりかひょこっと生えた尻尾が危険を知らせるようにぴんっとたって裏側の白毛を見せた。
ふわりは恐る恐るといった感じで長身の流泉の顔を仰ぎ見るが、瞳を見つめ返す勇気が出ずに長い睫毛を一度伏せる。しかし彼がふわりの腕をかしめ、必死に握るその強さから、もうきっとこの腕からは逃げられないと半分ほっとしたような甘い痺れがもたらされた。
(あんな騙すような真似をして……。きっと、僕のこと怒ってるよね……)
彼の男っぽくも涼し気に整った精悍な顔立ちに浮かぶのは苛立ちが少々、そこに戸惑いと切なさが入り混じったような複雑な感情が浮かぶ。
流泉はゆっくりと彼の顔を振り仰いできたふわりの幼顔の中に誰かの面影を探すかのようにしげしげと眺めてきた。
春先でも鮮やかな青い半袖のユニフォームから覗く筋肉が盛り上がった腕が校舎の壁につかれ、もう片方の腕はまだ少年の幼さが残る、ほっそりと華奢なふわりの二の腕を大きな掌でがっしりと掴んでいる。
頷きも返事もせぬふわりの顔を覗き混もうと、彼は片手を倉庫から離して小さな頤に手をかけゆっくりと仰向かせた。
白目が青く澄み、ただ黒いとばかり思っていた彼の切れ長で大きな瞳は、こんな昼日中、間近で良く見ると星屑のような金銀の硝子が撒かれたような色合いだ。ふわりはたった今彼の腕の中でそのことを初めてその事実を知ったのだった。
彼から漂う爽やかな制汗剤のシトラスが仄かに香り、駆けた後だからではかたずけられぬ、とくんとくんと忙しなく弾む胸の鼓動が鳴りやまない。
「先輩、今。部活中ですよね……」
眉を下げ、緊張からやや掠れやっと絞り出した言葉はそんな間の抜けたものだった。
彼がいかにサッカーを愛し、日頃から規律正しく真面目に、練習に取り組んでいるのかを知っていたから、ふわりのせいで練習をさぼる事は非常に良くないと思ったのだ。
ちらりと彼越しにグラウンドを見やれば、堅物の新副主将が突然起こした予想もつかぬ行動に驚いた部員たちが、頭をこちらに向け様子を伺いながらランニングを続ける姿が目に映った。
「……いいんだ。もう逃げるな。俺の前からまたいなくならないでくれ」
哀願のような台詞にふわりは身体の次に心を縛られる。
さらにトドメとばかりにユニフォームの白いハーフパンツから穿ち出た銀狐の尻尾がふさりと勢いよく振られてふわりの行く手を通せんぼした。
光沢ある黒に銀糸が混じる毛づやのよいその尾が、力なくだらりと垂れたままのふわりの腕を官能的な雰囲気でふっさりと撫ぜ上げていく。その刺激にぞくぞくっと身を震わせ顎を上げたふわりは、瞳を僅かに潤ませながらこくこくっと頷いた。
「聞かせて欲しい……。どうしてあの時、来てくれなかったんだ?」
「……っ!」
それはいつでも会うたび穏やかで優しい笑顔で応じてくれた彼の、初めて聞く苦し気な声。
(僕がリュウを傷つけた……。あんなことをしたから……)
やはり流泉はふわりの正体にとっくに気が付いていたのだと分かり、申し訳なさで涙がぽろぽろっと零れ落ちた。
「俺があんなことしたからか?」
黒々とした睫毛を伏せながら、流泉は男っぽい筋の浮いた指先で無意識に自らの形良い唇をなぞる。その仄かにセクシーな仕草から視線を逸らせずに、ふわりが息をのむと、煌く涙の道筋ににちょうど桜の花びらがひらりと一枚降りかかる。そしてふわりの薄紅色の紅潮した頬に吸い寄せられるように張り付いた。
久しぶりに間近でみた流泉の顔立ちはあらためて見ても雄々しくも端正で、こちらが見蕩れるほどに美しい。思わず唇に目をやり、ふわりは頬を染めると、流泉は長い睫毛を伏せた哀し気な表情をふとゆるめ、出会った時と変わらぬ慈しむような優しい手つきでその悪戯な花びらを摘まみ上げる。
流泉のどんなふわりであったとしても、変わらぬ愛情深い仕草に観念し、ふわりはぎゅっと一度目を瞑るとぽろっと小さな涙が零れ落ちる。そして噛みしめより赤くなった小さな唇をを開いた。
「違うよ。それは……僕が……」
「うん」
静かにふわりの告白を待つ流泉は、狐らしい大きな耳をぴくりと一度動かしてから小さな呟きでも聞き逃すまいと華奢なふわりの顏近くに背を屈めた。
吐息が触れ合うほどの距離に二人の顔が近づいた、丁度その時。
左側から勢いよく金色の人影が飛び出してきて、突き出した掌がどんっと流泉の胸を突き倒す。
「わあ!!」
駆けつけてきた人物は、流泉に腕を掴まれたままの華奢なふわりがつられて倒れそうになるのを許さず、ふわりの逆の腕を掴んで乱暴な動作で自分の方に痛い程に引き寄せた。そして真夏の太陽のように赤々と鮮やかに輝く黄金色の尻尾を、流泉の半身に容赦なくぴしゃりと叩きつける。
ふわりは逆の手首を激しく押されながらも鍛え抜かれた足腰で踏みとどまった流泉にかしめられたまま、今度は飛び込んできた青年のさりげなく香水の薫るやや着崩したブレザーの胸にぽすっと顔を埋め、抱きかかえられてしまった。
「晃良! お前!」
「こいつを泣かせんな! こいつを……。ふわりをからかって泣かせていいのは俺だけなんだよ!」
高校生にしてはややハスキーで深みのある声の主のこともふわりはよく知っていて、突然抱きしめられていた彼の腕の隙間からもぞもぞと顔を出すと、抱擁から逃れてぴょんと飛びのいた。
そしてあらためて二人に対峙すると、彼らから涙を隠すように目元を擦りながら力なくはにかんだ。
「アッキー先輩、僕、泣いてないから。大丈夫だよ」
「ふわり……」
突然現れたまるで王子様のように綺羅ぎらしい容姿の晃良にふわりが明らかにほっとしたような顔を見せたから、流泉は焦れたように眉を吊り上げ、晃良を睨みつけたまま、ふわりの腕をまた自分の側に引き寄せた。
よろよろっとふわりが流泉の方に引き寄せられるのを、晃良は少し青みがかった虹彩を太陽に炯炯と輝かせそれを許さず、自分と同じ制服を着たふわりのふわりの細腰にも手をかけ引き寄せようとした。
「流泉! 手を離せ」
「お前こそ離せ! 俺がこの子と話をしようとしていたんだ。俺たちの邪魔をするな」
「俺たち?? じゃあなんでふわりを泣かせてたんだ? お前、こいつのこと何も知らないだろ?」
「知っている。俺は……。この子が!」
ふわりの赤みの強い茶色の大きな瞳が何か言いたげに流泉をおずおずと見上げ、再び視線をかっちりと絡め見つめあう。
(会いたいのに、会えなかった)
そんな思慕を互いに胸に秘めた二人の間に、ほろ苦くも甘い空気が漂う。この真新しい紺ブレザーに身を包んだ姿で流泉と向かきあうのは初めてで、ふわりはどうしていいのかわからず、だぼだぼの袖をぎゅっと掴んでは離しと忙しなく指先を動かした。
「リュウ。俺……」
「うん」
そんな二人を邪魔する様に、日頃は何事も軽い調子でご機嫌よくおどけてばかりいる晃良がふわりが耳をぴくぴくっとさせる程の真剣みのある大声を出した。
「お前が知ってるふわりは、このふわりじゃないだろ? 『きらり』って子のことだろ?」
「違う。いや、そうだが。それでも、どんな君でも、俺は……」
神宿高校はおろか近隣高校の女生徒の人気を二分する、葛森流泉、葛森晃良。
タイプは違うが大変な美形である金銀ぎつねは、従兄弟同士で親友同士。
そんな二人で一対のように仲の良い彼らが、新入生を取り囲んで何やら揉めている。
放課後桜並木を校門に向かう生徒たちは、そんな彼らの様子を一目見ようと、立ち止まり遠巻きに眺め始めた。
二人に両側から挟まれ、ふわりの頭上で一歩も引かぬにらみ合いはいつまでも続いていく。
ふわりは彼らにずっと右へ左へと引っ張られ続け、心も身体も振り子のように揺れ続けてどうしていいのか分からない。
ざあっと強い南風が三人の間を吹き抜け、桜吹雪が蒼天に舞い上がる。
二人ほぼ同時のタイミングで、ふわりの腕を引っ張りながら、息ぴったりな様子で高らかに良く似た艶やかな声を張り上げた。
「ふわり! 俺と行こう」
「ふわり! 俺と来て!」
(どうしたらいいの? どうすればいい??)
「ええと、僕、ボクは……」
どちらを見ても少しだけ面差し似たの眩い美男がまっすぐな眼差しをふわりに一身に注ぎ、ふさふさの尻尾を緩やかにしならせながら、強く腕を取って誘ってくる。顔を真っ赤にしたふわりはこの状況についていけずにへなへなと地面に膝から崩れ落ちた。
(ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう……)
長く真っすぐでピンとしているのが自慢のキャラメル色の耳を伏せて、ふわりはますます困り果てる。
そしてまだたった15年の人生の中で、もっとも心揺さぶられることが多かった二人との出会いから今までを思い返してみた。
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