梅薫る、葛森神社1-2

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梅薫る、葛森神社1-2

 室内の展示を一通り回ってたが、もう1人の葛森な息子とすれ違うこともなく、ふわりは一度神社の境内まで行って兎を祀った塚を探したが見つからず、ことと笛の演奏に耳を澄ませながら、受験の時に買ったお守りを『無事に合格できました』と心の中でお礼を言いながら返してきた。  茶寮は整理券を貰えたので戻る頃にはちょうどふわりの順番が巡ってきたおかげで、ゆっくりお抹茶を堪能することができた。今日のイベントも終わりの時刻に差し掛かり、もはや葛森の息子たちのことはそっちのけで、ふわりは歴史文化に触れてほくほくした気持ちになりながら、先程の浮世絵が飾られた通路に戻ってきた。絵の下にタイトルと作家の名前が書かれたプレートがあり、ふわりはにんまりと口元を緩ませる。 (やっぱり河瀬一水だ。こんな所で見られるなんてラッキー)  それは祖父母のお気に入りの浮世絵師が手掛けた作品だった。幼い頃長い時間を過ごすことが多かった祖父母の家に飾られていたのは、この作者の祖母の育った家の近くの夕景を浮世絵。ふわりにとっては馴染みもあり、幼い頃熱を出した時など、寝かされた少し線香くさい和室に飾られていたからなんとなくその時の気持ちと相まって切なくも郷愁を誘う気持ちになれる。少し大きくなってからは祖父母に連れられて郷土博物館から美術館まで見て回ったことのある大好きな作家。  それが全部で4枚ほどあり、手前から春夏秋冬。季節を巡れるようになっていた。ふわりは一つ一つをゆっくりと眺めてからまた1番初めにみた作品を再び見返していた。 (この池の雰囲気、ここの神社を描いたものかな?)  先ほど通ってきた池に掛かった特徴ある遊歩道。画面奥には遊歩道の終わりに青銅の小さな鳥居も見える。その上に桜の枝が張りでて花びらが何とも言えぬ深みのある青い水面にはらはらと散り、打ち寄せる花筏を描くさままで細かく描写がなされていた。 (初めの方に摺られたものかも。細かいところまで線が生き生きしてる) 「浮世絵に興味があるのかい?」  後ろから男性に急にそう声をかけられてふわりは考えていたことを口に出してしまったのかと自分で自分に驚いてから、ゆっくり首を巡らす。すると着物姿の中年男性がいつの間にか斜め後ろに立っていた。 (この人も狐だ……。着物もを着てるし、きっと葛森の人だろうな。まさかさっきの葛森さんのお父さん? にしては若いか。母さんや美香叔母さんと同じぐらいかな?)  ふわりの母は学生時代にすでにてぃあらを身ごもっていたので周りの保護者に比べてずっと若いのだ。その上自分がデザインした愛らしい服装をしているとてぃあらの姉で通じると本人が豪語している(てぃあらは迷惑そうな顔をするが)。  ふわりに興味をもったのか、それともこの浮世絵の説明がしたくてたまらないのか、その男性は立ち去る様子もない。黙っていたら凄みがありそうな顔立ちだが愛想よさげに微笑み、よく脇役で味のある演技をしている狐の俳優の誰それと似ている感じだが、それを軽薄にした感じだ。  晃良と同じように着物に身を包んではいるが年相応の銀鼠のそれでぐっと渋く、銀杏色の羽織の紐が妙に目に残った。ひょろりとした体格で身長も毛並みの光沢も若い晃良と比べたらやはり見劣る。しかし笑いジワのうっすら浮かぶ大きな目元などどことなく彼に似ているなと思った。  声をかけられたふわりが壁の方にやや引いたのを見て警戒されていると思ったのか、その男性は耳の先をかきながら吊り上がり気味の目を細めた。 「ああ。驚かせて悪かったねえ。僕はこの雪香の関係者だよ。君のような若い子が浮世絵に興味を持つのは珍しいから、おもわず声をかけてしまったんだ。同じ制服姿の子たちは館内のそこここで自分やお菓子、茶寮のスィーツの写真を撮ることに姦しく夢中だったからね。美しい絵だろう?」  そういうことか、とふわりはほっとした表情で頬を薄紅に上気させると浮世絵にまた目線をくれながらこくっと頷いた。 「はい、すごく。水の表現も、桜や空も鮮やかで濃いめでとても綺麗だと思います」 「それはこの神社を河瀬一水が描いた作品だよ。その絵だけは初摺だから細かいところまで鮮明だろう?」 「すごい! 初摺のものなんですね」  やはり違うなと思う圧倒的な鮮やかさはふわりの視覚を存分に刺激してきた。  浮世絵というのは版画の一種だから、やはり早めに摺られた作品であればあるほど版木の劣化が少なくよりくっきり鮮明で美しい。ふわりも以前せっかく好きな作品が展示されているというから遠くの美術館にまで見に行ったのに、以前に他の展示で見かけたものよりもずっと線が弱弱しく色合いもいまいちで残念な気持ちになったことがあった。同じ作家の作品を集めた展示会でも玉石混交ということもある。その点この作品は思い崖ない場所で触れ合えたという点で及第点以上の価値があると言えた。  また浮世絵をしげしげと見て居ているふわりの背後では、狐の男は目を輝かせるふわりを、どこか親し気な眼差しで見つめながら、一歩一歩と履物を進めてきた。 「館内の別の場所にも浮世絵が飾られた廊下があるよ? 僕と一緒に見に行くかい?」 「え? 他にもあるんですか? 是非見たいです」 「いいね。じゃあ一緒に行こうか?」  やや剣呑な光が狐の男の瞳を過り、舌なめずりせんばかりにふわりの背中に腕を回そうとしてきたが、ふわりはのんびり構えてまだ浮世絵を眺めている。  大好きなものを眺めているふわりは無防備で、今の自分がどんなふうに相手の目から映っているかなどと、中三男子の中身を持つふわりの頭の中からはすっかり抜け落ち、殆ど素のふわりに戻っていたのだ。  高校生であっても、18歳の少女はもう成人している。今の見た目はてぃあらの実に上手なメイクが映えに映えた少し大人っぽいミニスカセーラー服姿の美少女であるから、相手のオジサンがただ浮世絵好きの学生というだけで興味を持つはずがないとはこれっぽっちも思い当たらないのだ。  親切な言葉がけにすっかり気を許してしまい、そのままにっこりと愛らしい笑顔を男の方に向けると、彼が思ったより傍に寄ってきていたので驚いた。  先ほどまでやや切れ長の瞳に浮かんでいた愛想笑いは鳴りを潜め、すうっと細められた瞳に宿る光がおなじ笑みでもなにか危うげなものを感じる。  多分それは執着のような情念のこもるそれだったのだろうが、しかし情緒がまだ子供に近いふわりは、それを何と呼んでいいは分からなかった。  ただ本能的に危険を感じていたのか背筋の辺りが急にぞわぞわっときてたまらなくなり、無意識のうちにふわりの身体の方が反応し、耳をぴんっとたて、尻尾もきゅっとやや裾を持ち上げるようにスカートの下で立ち上がる。 「君は……。僕の初恋の人によく似ているんだ。さっき横顔を見かけてた時、あの頃に気持ちが戻ったように切なくて、懐かしくて……。狂おしい持ちになったんだ。ねえ? 他にも浮世絵を見せてあげるから、ちょっと茶寮で僕とお話をしてくれないかい?」  ふわりにしか聞こえない囁き声で熱っぽく口説かれ、流石に目を白黒させながら戸惑い、壁に背中をぺたりとくっつけてあたふたとしてしまう。 (ええ??! どういうこと? 突然なになに?? まさかナンパ??)  まさか親子ほど年の離れた男にこうもぐいぐい来られるとは思わず、にじり寄る男と壁に挟まれ、なんとか言い訳を考えようと、また鞄の肩ひもを千切らんばかりによじりながらどぎまぎと応じる。 「さ、さっき茶寮でお茶をいただい所なので……。結構です」 「そうか。じゃあ、もう閉館近いと思うけど、特別に僕が宝物殿の資料室を開けてあげるよ。あそこにも浮世絵があったと思うよ? そのあと食事でもどうかな? 」 「い、いえ。ほんと、あの、もう大丈夫です」  なにが大丈夫なのか分からないが、とりあえず上ずった声でそれだけ呟いたが、余裕ありげな男は全く怯まない。 「そんなに恐縮しなくていいよ? 神社も雪香も僕の身内だからね。心配しないで。一緒に行こうよ?」  吐息が耳の近くまで降りかかる執拗に絡みつくような誘いに、ふわりの少年にしては小ぶりな手まで掴みそうな勢いに、流石に怖ろしくなってさらにふわりは子ウサギのように身をかがめて震えあがった。  しかし神聖な神社の隣、神は幼気な子ウサギを見捨てなかったのか。もはやふわりの腰に手を回そうとまでしていた男の腕が、逆にグイっと後ろに引かれた。  伏せがちにしていたふわりの目に飛び込んできたのは鮮やかな金色の被毛に覆われた誰よりもふっさりと立派な尻尾。 驚いてふわりが顔を上げるのと、男がふわりから引きはがされるのはほとんど同時だった。 「穂積叔父さん、なにやってるんですか?」
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