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事態の始まり
「次は何が観たい?」
「え、ええと……ファンタジーものとか、どうですか? 確か指輪の話の……すごい長編だったと思うんですけど、私観たこと無くて」
大きな液晶テレビに表示された映画のアイコンを眺めながら、私達は二人で昼の太陽が降り注ぐソファの上で画面を指差し、次はあれにしようか、これにしようかと話していた。今は昼食の後片づけも終わり、午後の一息といったところである。
私が課長の家に来たのが昨日。
夜に専務から一度連絡があったようだったけど、二日目となる今これといった変化はない。まだ昨日の今日だからかもしれないけれど、専務には新聞記者等から接触がある可能性があると言われていた分、少し拍子抜けだった。
と言っても、課長がすぐ傍に居るせいで終始ドキドキしっぱなしなのはちょっと困るところではあるのだけど。
「そういえば俺も観てないな。一時期流行っていたのは知っていたが」
「ほ、本編と前日譚合わせると六部くらいあるそうですから、時間が無いと中々手が出しにくいですよね」
私の返事に課長が頷きながらリモコンを手に画面を操作した。少し前のめりになったせいか、彼の凛々しい喉元が私の目の前に来てしまう。男性の喉仏が色っぽい、なんて思うのはきっと課長が相手だからだ。
しかし、一つ疑問なのはなぜ私は今日も彼の膝の上に乗せられているのだろう? という事で。
昼食後に昨日と同じく「おいで」をされてしまい、その通りにした結果ではあるのだけど、まるで当たり前のようにそうする課長がなんというか、可愛くて……正直かなり、照れる。
映画でも観ようかと言ってくれたのは課長だ。もしかしたら、こうすることが目的だったのかもしれないと、嬉しそうな彼の顔を下から眺めつつ思う。
ただ彼の筋肉がしっかりついた太ももの上は安定感はあるけれど、座り心地は羞恥心が邪魔をして良いとは言えないし、頬は熱くなるし、私の体重で彼の足が痺れるんじゃないかと気が気じゃないしで、この膝抱っこからどう逃れればいいのか私は内心悩んでいた。しかもすでに一本映画を見終わった後だ。絶対痺れていると思うのだけど、どうしてこの人は平気な顔をしているのだろう。
好きな人にずーっとドキドキしっぱなしなんて、まるで自分が十代の女の子になったような気分だわ。
年齢の事を考えてはいけないとわかっていても、課長の言動に一々心が反応してしまって、心がふわふわと浮いているようだった。彼はどうも、自分の懐に入れた人にはとことん甘くなってしまう質らしい。なんというかズルい。
実は結構な映画好きという課長の部屋では、ネットとテレビが繋がっていて、現在画面には某有名動画配信サービスのアイコンと動画一覧が表示されている。
彼はあまりテレビは観ないらしく、最近はもっぱら隙間時間に映画ばかり見ているとのことだった。
情報収集にはニュースアプリを利用しているらしい。スマホをはいと私に手渡した彼は、横から指を滑らせてインストールされているアプリ画面を見せてくれた。誰もが知る経済新聞の有料アプリや、株などの金融ニュース系なども入っていて、会社でも効率よく仕事している彼らしいと思う。
「あ、それです。映像が凄いって、律子が言ってました」
「なるほど巽君か。昨日の彼女は……少々強烈だったな」
「ふふ。私も吃驚しました」
私がファンタジー超大作と書かれた映画のアイコンを指差すと、課長は少し苦笑いしながらリモコンで紹介画面を表示してくれた。恐らく昨日の会話を思い出しているのだろう。
彼女には昨夜のうちに連絡して私の居場所を教えてあった。課長がそうして良いと言ってくれたからだ。
けれどその際、律子に通話を課長に代わるように言われて代わったところ……『茜を巻き込んどいて、守れなかったら只じゃおかないわよ!!』という彼女の怒声が大音量でスマホから聞こえた、というわけである。
「他人に怒られたのは久しぶりだった」
「あ、はは……なんていうか、すみません」
「いや、おかげで背筋が伸びた。助かったよ」
律子の怒声に課長は真剣な表情と声で「必ず守る」と答えてくれていた。
普段はざっくばらんな律子の私への気持ちも嬉しかったし、それに真摯に対応してくれた課長の姿もとても嬉しかった。
私は得難い二人に囲まれていたのだと今更知った。
「全部落ち着いたら、彼女に何かお礼がしたいです」
「そうか。俺にも何か出来ることがあったら、言ってくれ」
「ありがとうございます」
この事態が終わったら、律子には彼女の大好きな旅行をプレゼントしたいと思う。もちろん私も一緒に行けたら嬉しい。着物が好きで隠れ歴史オタクな彼女には、京都巡りなんかも良いかもしれない。二人で着物を着て、美味しい京料理に舌鼓をうちながら女子旅が出来たら最高だと思う。
そんな風に考えていると、テレビ画面に海外で絶大な人気を得ている長編小説原作のファンタジー映画の紹介動画が流れた。
レビュー件数も膨大で評価も高く、ファンの熱意が感じられる。
件の律子から強く勧められていたものの、本編が三部作、前日譚も三部作という構成の為、観るとなると結構な体力を要する気がして長期休暇の時にと先延ばしにしてしまっていたのだ。課長も興味があるようだし、この際観てしまってもいいかもしれない。
律子と話す時の良いネタにもなるだろう。
けれどまず先に、この膝から降りてからにしないと。
「あの課長、流石にこのままじゃ足が痺れて大変だと思いますから、そろそろ降ろし―――」
「……来たか」
私がそう口を開いた時、室内に高い音が響き渡った。
来訪者を知らせる呼び出し音だ。課長は私を膝からソファに降ろすと、すっと立ち上りインターホンに近付いた。
通話のボタンを押すと、小さな画面に来訪者の映像が映し出される。
「あー……すみません」という中年くらいの男性の声が聞こえた。私も立ち上がって課長の傍に行くと、画面に映っている人間の上半身が見えた。
四十代くらいの中年男性だ。緑色のジャケットに、首からは社員証のようなネームプレートを下げている。明らかに業界関係者、といった風情だ。
「本庄尚人さんでいらっしゃいますか。わたくし『週刊文考社』の平内と申しますが、カイズ・エリアル会長の事で少々お伺いしたい事が―――」
「お答え出来ることは何もありません」
ぷつり、と画面が消えて暗くなる。課長が通話を切ったからだ。彼の顔を横から見上げると、ちょうど深い息を吐いていた。
「どうやら、始まったらしい」
課長が苦く告げた。彼が私を片手で引き寄せ、耳元で小さく「すまない」と告げる。
私はそれに大丈夫ですと答えながら、先程まで私達が座っていたソファを横目に見た。
昼の太陽が降り注いでいたソファに、今は大きな雲の影が掛かっていた。たった今まで穏やかな休日のように過ごしていた空気が一気に霧散している。今日は晴れの予報だったけれど、この感じでは夕方には雨が降り出すのかもしれない。
どんどん雲が空を覆いつくしていくその光景に、私はこれから始まる事態への前触れを感じていた。
窓の横では一才桜の鉢植が、私達を心配するようにしょんぼりと花弁を雲の影に染めていた。
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