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「ぐりとぐらのカステラが食べたいです」
みはなが突然そんなことを言い出した。
キッチンで洗い物をしていた悦巳は蛇口をひねり、フキンで手を拭き拭き振り返る。
「え~……ぐりとぐらのカステラってアレっすか」
「たぶんそのアレです」
「ちょっと待っててください」と断って部屋に駆け戻るみはな。ごそごそと本棚をあさる音に続き、キッチンに取って返した彼女の手にはあの有名な絵本が掲げられていた。
赤い帽子と青い帽子をかぶった仲良し野ねずみが、バスケットを持って歩いてる表紙。誰でも一度は見たことあるかもしれない。
忙しげにページをめくり、まんまるに膨らんだカステラの挿絵を指さす。
「これです、これが食べたいです」
香ばしいキツネ色に焼けたカステラは、なるほどよだれがでそうにおいしそうだ。悦巳はほのぼのと目を細める。
「懐かしいなあ、子供の頃好きで読んでたっけ」
「えっちゃんちにもありましたか?」
「施設の本棚に。大志によく作ってってねだりました、昔っから料理好きだったんすよアイツ、先生たち手伝ってゼリーとか作ってたし」
「えっちゃんは昔から食いしんぼだったんですね」
「したらアイツなんて言ったと思います、ちゃっかり手ェだして『一万円な』って。金とんのかよしかもボリすぎだろ!って突っ込んじゃいました」
「大志さんのごはんはおいしいから仕方ないですね」
思い出しキレる悦巳をみはながおっとり宥める。
えっちゃんこと瑞原悦巳は児玉家の家政夫にして、貿易会社を経営する若社長・児玉誠一のパートナーだ。誠一の一人娘であるみはなの面倒は大抵彼が見ている。
悦巳が居候してから児玉家のキッチンには物が増えた。
以前はほぼ自炊の形跡なく片付いていたのだが、現在はマグカップやパステルカラーの皿、ファンシーな電気ケトルが仲間入りし、戸棚や水切りで賑やかに団欒している。実に家庭的な雰囲気だ。
縁に上品な青を入れたウェッジウッドのティーカップは普段使いにはもったいなくて、リビングの棚に観賞用として飾ってある。
「今日のおやつはこれがいいです」
口をへの字に結び、一歩も引かない気構えを見せるみはな。食い意地張ってんのは誰に似たのか……まさか俺?
「つっても作れっかな……難易度高くねっす?」
スウェットから出したスマホをぽちぽち操作、ネットで検索をかける。
するとネットのレシピや動画が大量にヒット、でるわでるわで「おお」と感嘆符を漏らす。
さすがぐりとぐら、国民的絵本に登場するカステラは料理好きの挑戦心をくすぐるらしい。
「んー……でもカステラはなあ……」
渋い顔で失敗を懸念する。
カステラは一度も作ったことがない、万一焦がしたら材料がもったいない。
「ちょっと待っててください」
行儀よくステイするみはなの前に片手を立て、スマホの短縮にかける。さほど待たせず相手がでた。
『ンだよ今手ェはなせねーのに』
無愛想な声。
同じ施設出身であり、現在は調理師めざして勉強中の親友・大志だ。
「わりぃ大志、ぐりとぐらのカステラの作り方教えて。スマホ繋ぎっぱにしとくから実況で」
『やぶからぼうに何言いだ……ははあ、ちっこいののリクエストだな?』
悦巳の足元ではその「ちっこいの」が聞き耳を立てている。
「お前ならできんだろ?」
『できねえよ』
「嘘吐け、前に何回かホットケーキ焼いてくれたじゃん」
『ホットケーキとカステラはちげェっての、見た目は似てっけど』
「材料と見た目は大体おんなじじゃん。カステラの方がじゃりじゃりしてっか?」
『お前カステラの上と下の薄紙が好物だったよな、毎回キレイになめとっててドン引きした』
「ガキん頃の話蒸し返すなよ」
『いい年いってからもやってたろ』
大志が心底あきれる。いい加減水に流してほしい。
「なーいいだろ大志、頼むこのとーり一生のお願い」
『一生のお願い大安売りだな。言ったろ、いま忙しいの』
「何してんだよ?」
『洗車』
なるほど、さっきから聞こえてた放水の音はホースか。大志は調理の専門学校生兼、誠一の部下であるアンディの洗車係を務めている。
正確には洗車係兼雑用として働くのを条件に、アンディの部屋に住まわせてもらっているのだ。
『早いとこ泥ハネぴかぴかにしねーとデカいのにまたどやされる』
「ツレねえこと言うなよ、お前だけが頼りなんだって!」
『YouTube検索すりゃ作ってみた動画ザクザク出てくんだろ』
「お前の教え方のがスッと入ってくんだよ』
『サボるなよ』
『わかってるっての、いちいちうっせーな』
大志の背後からアンディの注意が割り込んでくる。居候が手抜きしないか見張っているらしい。
『じゃあな。健闘祈る』
「!待て」
『完成後においしくなあれの魔法かけんの忘れんなよ』
ピッ。
笑いを含んだひやかしを最後に、無情にも通話は切れてしまった。
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