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「ケチ」 途切れたスマホに舌打ちするもわがままは言えないと考え直す。 頼みの綱の大志には断られてしまった。動画を参照しながら焼くのはいまいち心もとない、自慢じゃないが悦巳は並列作業(マルチタスク)が苦手だ。あっちを見てこっちを見て大忙しでパニクるのは明らか、おかげで味噌汁をよく吹きこぼし焼き魚を炭にする。一方で期待に目を輝かせるみはなを裏切るのが忍びなく、脳味噌フル回転で妥協案をさぐる。 閃いた。 「だったらみはなちゃん、ホットケーキはどっすか」 「カステラは?」 「残念だけど俺にはまだカステラは早いっす、アレは大志のような上級者向けっす。ホットケーキなら何回かやったことあるしみはなちゃんが手伝ってくれたら楽勝っす、戸棚に粉もあるし冷蔵庫にゃ牛乳とたまごも」 みはなが目をぱちくり。 「みはながお手伝いするんですか?」 「お料理助手お願いできますか?俺一人じゃ自信なくって……その点みはなちゃんがお手伝いしてくれたらカイリキーヒャクニンリキっす、最高においしいホットケーキができあがるに決まってるっす。ぐりとぐらのカステラはまた今度、修行を積んでからとりかかるっす。まずはホットケーキで腕試しっすよ、両方似たようなもんだし」 「カステラとホットケーキは違いますよ」 「でもどっちもおいしいっしょ」 みはなが返しに詰まる。 してやったりと悦巳がにんまりする。 「材料は大体おなじっしょ?小麦粉にたまごに牛乳に砂糖に……スマホにも書いてあるっす」 水戸黄門の印籠のごとく、「ばばーん!」と頭の悪い効果音付きでスマホに呼び出した材料表をみはなに見せる。 説得に手ごたえを感じ目線の高さを調節、微笑む。みはなは未練がましく挿絵のカステラを見詰めていたが、やがて静かに絵本を閉じ、「しかたないですね」と呟く。 「やりー」 丸めこむのに成功するや小声で快哉、指を弾こうとして慌てて引っ込める。 「じゃ準備してこなきゃっすね」 「あいあいさー」 どこで覚えたのか(アンディの影響?)みはながビシッと敬礼してエプロンを取りに行く。 よくできた子だ、きっと俺の育て方がいいんだなとうぬぼれる。 みはなの譲歩を勝ち取ったのち、ふと思い立ち誠一と共用の寝室へ引っ込む。机の上にノートパソコンが出ていた。 それをキッチンカウンターへ移し電源を入れる。こないだインストールしたビデオ電話を起動、回線を繋ぐ。 「やっほー誠一さん、見えてるっすかー」 『仕事中だ』 繋がると同時にむすっとした声。 社長室のデスクにふんぞり返り、書類から顔を上げた誠一が不機嫌そうに睨んでくる。 液晶にむかって朗らかに手を振る悦巳に、椅子を回して向き直る。 『何の用だ』 「これからみはなちゃんとホットケーキ焼くんすよ、誠一さんにも音と映像お裾分けしてあげよって思って。仲間外れはかわいそっすもんね、働くお父さんご褒美っす」 さすがに匂いと味は無理っすけど、と笑って付け加える。本音を言えば新しく入れたアプリを使ってみたかったのだ。 誠一が悠然と長い足を組み替える。 『切るぞ』 「ちょちょちょい待ち、たんまっす切らないで!?」 『くだらない用事でいちいちかけてくるんじゃない』 「オンラインクッキングに付き合ってくださいよ」 『仕事の邪魔をするな』 「お父さんに応援してもらったほうがみはなちゃんも絶対やる気でますって」 通話を切って仕事に戻りかけた誠一がピクリとする。もう一押しだ。 悦巳は勇を鼓し、拳を握り込んで訴える。 「かわいい娘がはじめてホットケーキ作るんすよ、フライパンであっちっちーあっちっちーしちまわねーか小麦粉でブフォッてしねーか心配じゃないんすか?オンラインで見守り隊したくないんすか」 『まだやらなきゃいけない仕事が残ってるんだ』 「接待とか取引とか?」 『午後に外出の予定はないが』 「社長室にこもってるんならちょうどいいじゃないっすか、BGМ代わりにふたりでできるもん流しといてください」 誠一はしばし考え込む。後に残っているのは書類への判押しだけ、オンライン通話を繋いでおいても邪魔にはならない。 それに一人娘に万一の事があったら心配だ。 家政夫は頼りないし、画面越しでも自分が目を光らせておく方が賢明だと思い直す。 よって、誠一は保険をかけることにした。 『……わかった。くれぐれも騒ぐなよ』 「それでこそ誠一さん!」 悦巳が指を弾いて喜ぶ。そこへみはなが走ってきて、悦巳とおそろいで買ったエプロンを渡す。 みはなをターンさせ鼻歌まじりにエプロン紐を結ぶ悦巳を一瞥、書類仕事へ戻る。 働きすぎのアンディには休暇をやった。代理の秘書は遅い昼食をとりに出かけている。 オフィス街のビル上階、高価な調度を整えた広い社長室にひとりきり。パソコンの向こうから賑やかしが入るのも悪くない。
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