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あせって窓を切り替えれば、みはなをちょこんと抱っこした悦巳が、反省の表情でしおたれていた。 『すいません、鼻歌うるさかったっすよね。配慮が足りませんでした』 「くだらないことで呼び戻すな」 『不条理な!?』 「問題ない、音は小さくしてある」 別段誠一へのいやがらせではなく、料理中は自然にでてしまうらしい。 『えっちゃんは悪くありません、唄ってほうが楽しいですよ』 『でも仕事の邪魔だし……唾入っちまったらばっちいし』 『じゃあもうすこし小さく唄いましょ』 『らじゃっす』 みはなに慰められ気を取り直し、今度はやや小さく唄いだす。誠一はボリュームをやや上げ、二人の歌に合わせてリズムをとる。 でこぼこな歌声を聞いてると、靴の先と膝がひとりでに動いてしまうのだ。 『いよいよオンラインクッキングの山場、フライパンで焼き入れるっす』 「報告はいらん。おまけに言い回しが物騒だ」 仕事をあらかた片付け、手持無沙汰の誠一が頬杖を付く。 フライパンは既にバターを引き、弱火であたためてある。 『ここにタネを入れるっすよみはなちゃ』 悦巳が振り向く。 ボウルを抱え込み、スイッチを切ったハンドミキサーの先をちびちびなめていたみはなが硬直。 『「こらっ!」』 画面のあちらとこちらで悦巳と誠一がユニゾンする。 『なにしてるんすかみはなちゃん、だめっすよ!』 『ご、ごめんなさい。おいしそうだったんでちょっとだけ』 悦巳が血相変え、ボウルとハンドミキサーをひったくる。 すっかり縮こまり、しおらしく謝罪するみはな。優しい家政夫の剣幕に、涙ぐんで怯えている。 「意地汚いぞみはな、まったく誰に似たんだか」 『ハンドミキサーはちゃんと分解してからじゃねーと危ないっしょ!』 そっちか。 怒るのも馬鹿馬鹿しく脱力する誠一をよそに、悦巳はピーターを本体からすっぽぬき、きょとんとするみはなに手渡す。 『しっぽ抜いたのに……』 ハンドミキサーの電気コードはコンセント入れから抜けていた。 『ま、万一ってことがあるっす。みはなちゃんが実は超能力者で突然念動力に覚醒するとも限んねーし』 「念には念をか。念動力だけに」 見落としていたらしい悦巳が慌てて言い張る。誠一は苦笑を禁じ得ない。 悦巳がノートパソコンに歩み寄り、誠一にだけ聞こえる声で内緒話。 『気持ちはわかるっす、なんで焼く前のホットケーキミックスってあんなうまそうなんすかね?』 「さあな」 『誠一さんはしたことないんすか』 「お前と違って行儀のいいガキだったんだ」 画面の端っこ、ピーターの先端に絡んだ液体をなめてうっとりするみはな。恍惚たる至福の表情。 「食い尽くされる前に焼いたほうがいいんじゃないか、アレじゃ腹を壊すぞ」 『わかってますって』 誠一の催促をうけた悦巳がみはなの所へ戻っていき、『一口ください』とねだる。みはなはピーターを悦巳の口元へ持っていき、彼はそれを食べる。 『ごちそうさんっす。それじゃ今度こそ本番』 『みはながやります』 『もちろんっす』 踏み台に爪先立ったみはなに場所を譲る。 みはなはフライパンの柄を両手で握り、悦巳はボウルをゆっくり傾け、中身を注いでいく。中央にたまったホットケーキミックスがうす平べったく伸びて、フライパンのふちで止まる。じゅわあああっ、火が通り弾ける音。 『わ、わ、じゅわああって言ってます』 『焦げ目が付かねーようにまんべんなく焼くんすよ』 悦巳がさりげなく後ろに回り込み、みはなの手ごと柄を握り直す。仲睦まじい二人の姿に、誠一は祖母と過ごした時間を思い出す。 男を作って出ていった母のかわりに、誠一の面倒を見てくれた祖母もまた、ああしてホットケーキを焼いてくれたのだ。 なんでもひとりでやりたがる誠一を立て、自分はしっかりサポートし、されど危ない時はフォローを欠かさず。 『そうそこ、フライ返しを入れてひっくり返す!』 『で、できました!』 『一発でコツを掴むとは筋がいいっすね、ホットケーキマスターになれますよ』 『えへへ……いい匂いがしてきましたね』 悦巳とみはなはどちらも楽しそうだった。心の底からホットケーキ作りを楽しんでいた。 音と映像だけでも幸福感が伝わってきて、日々に忙殺され乾いた心が満たされていく。 『できあがりっす』 『できあがりました』 『お皿とってきてくれますか』 『赤いので?青いので?』 『好きなので』 『わかりました』 悦巳がコンロの火をとめる。カウンターにやってきて、コルクの鍋敷にフライパンをおろす。 みはなが持ってきた皿にフライ返しにのっけたホットケーキをよそり、バターをひとかけてっぺんにのせ、冷蔵庫から出したハチミツでひたひたにする。黄金色のハチミツがバターと溶け混ざり、滝のように表面を流れ落ちていく。 『わあ……』 みはなが目を輝かせて感動する。頬は興奮に上気し、食べるのが待ちきれないといった様子だ。 『どうぞ召し上がれ』 『いただきます!』 みはなが両手で皿を捧げ持ち、慎重な足取りで画面から離脱していく。 改めて画面に向き直り、茶目っけたっぷりに微笑む悦巳。 『口ン中よだれの洪水ですごいっしょ』 「お預けか」 『帰ったら誠一さんの分焼きますよ、今作ったんじゃ冷めちまうし……どーせなら焼きたて食べてほしっすもん』 悦巳がくすぐったげにのろけ、誠一の目をまっすぐ見詰める。 『……実はホットケーキって憧れてたんすよね』 「パンケーキのほうが流行ってないか」 『パンケーキはほら、インスタ映えとかフルーツたくさんのっけてオシャレな感じっしょ?俺はもっとこー、フツーのが食べたかったんす。親がうちで子どもに作るような』 悦巳には両親がいない。 子供の頃施設の前に捨てられたのだ。 『……夢が叶ったかな?なんちって』 言ってから頬をかいて照れる悦巳へと、ささやかな悪戯心を起こして微笑みかける。 「愛情は何グラム入れたんだ」 『適量っす』 「適当な量の略か」 調子にのってからかえば、画面の向こうの青年が降参して口を尖らす。 『意地悪っすね、「好きなだけ」に決まってんでしょ』 拗ねた表情にこめられた不器用さが愛しさをかきたてる。 「こっちを向け」 『何っすか』 低く指図してから自分の唇に触れ、その人さし指を液晶に映る、悦巳の唇へ着地させる。 「……画面に指紋が付いた。切るぞ」 ぽかんとする悦巳。 やらかした恥ずかしさに耐えかね、そそくさ通話を切る誠一。 ホットケーキをきれいにたいらげたみはなが、画面の外で『ごちそうさまです』と言った。
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