180人が本棚に入れています
本棚に追加
4
あせって窓を切り替えれば、みはなをちょこんと抱っこした悦巳が、反省の表情でしおたれていた。
『すいません、鼻歌うるさかったっすよね。配慮が足りませんでした』
「くだらないことで呼び戻すな」
『不条理な!?』
「問題ない、音は小さくしてある」
別段誠一へのいやがらせではなく、料理中は自然にでてしまうらしい。
『えっちゃんは悪くありません、唄ってほうが楽しいですよ』
『でも仕事の邪魔だし……唾入っちまったらばっちいし』
『じゃあもうすこし小さく唄いましょ』
『らじゃっす』
みはなに慰められ気を取り直し、今度はやや小さく唄いだす。誠一はボリュームをやや上げ、二人の歌に合わせてリズムをとる。
でこぼこな歌声を聞いてると、靴の先と膝がひとりでに動いてしまうのだ。
『いよいよオンラインクッキングの山場、フライパンで焼き入れるっす』
「報告はいらん。おまけに言い回しが物騒だ」
仕事をあらかた片付け、手持無沙汰の誠一が頬杖を付く。
フライパンは既にバターを引き、弱火であたためてある。
『ここにタネを入れるっすよみはなちゃ』
悦巳が振り向く。
ボウルを抱え込み、スイッチを切ったハンドミキサーの先をちびちびなめていたみはなが硬直。
『「こらっ!」』
画面のあちらとこちらで悦巳と誠一がユニゾンする。
『なにしてるんすかみはなちゃん、だめっすよ!』
『ご、ごめんなさい。おいしそうだったんでちょっとだけ』
悦巳が血相変え、ボウルとハンドミキサーをひったくる。
すっかり縮こまり、しおらしく謝罪するみはな。優しい家政夫の剣幕に、涙ぐんで怯えている。
「意地汚いぞみはな、まったく誰に似たんだか」
『ハンドミキサーはちゃんと分解してからじゃねーと危ないっしょ!』
そっちか。
怒るのも馬鹿馬鹿しく脱力する誠一をよそに、悦巳はピーターを本体からすっぽぬき、きょとんとするみはなに手渡す。
『しっぽ抜いたのに……』
ハンドミキサーの電気コードはコンセント入れから抜けていた。
『ま、万一ってことがあるっす。みはなちゃんが実は超能力者で突然念動力に覚醒するとも限んねーし』
「念には念をか。念動力だけに」
見落としていたらしい悦巳が慌てて言い張る。誠一は苦笑を禁じ得ない。
悦巳がノートパソコンに歩み寄り、誠一にだけ聞こえる声で内緒話。
『気持ちはわかるっす、なんで焼く前のホットケーキミックスってあんなうまそうなんすかね?』
「さあな」
『誠一さんはしたことないんすか』
「お前と違って行儀のいいガキだったんだ」
画面の端っこ、ピーターの先端に絡んだ液体をなめてうっとりするみはな。恍惚たる至福の表情。
「食い尽くされる前に焼いたほうがいいんじゃないか、アレじゃ腹を壊すぞ」
『わかってますって』
誠一の催促をうけた悦巳がみはなの所へ戻っていき、『一口ください』とねだる。みはなはピーターを悦巳の口元へ持っていき、彼はそれを食べる。
『ごちそうさんっす。それじゃ今度こそ本番』
『みはながやります』
『もちろんっす』
踏み台に爪先立ったみはなに場所を譲る。
みはなはフライパンの柄を両手で握り、悦巳はボウルをゆっくり傾け、中身を注いでいく。中央にたまったホットケーキミックスがうす平べったく伸びて、フライパンのふちで止まる。じゅわあああっ、火が通り弾ける音。
『わ、わ、じゅわああって言ってます』
『焦げ目が付かねーようにまんべんなく焼くんすよ』
悦巳がさりげなく後ろに回り込み、みはなの手ごと柄を握り直す。仲睦まじい二人の姿に、誠一は祖母と過ごした時間を思い出す。
男を作って出ていった母のかわりに、誠一の面倒を見てくれた祖母もまた、ああしてホットケーキを焼いてくれたのだ。
なんでもひとりでやりたがる誠一を立て、自分はしっかりサポートし、されど危ない時はフォローを欠かさず。
『そうそこ、フライ返しを入れてひっくり返す!』
『で、できました!』
『一発でコツを掴むとは筋がいいっすね、ホットケーキマスターになれますよ』
『えへへ……いい匂いがしてきましたね』
悦巳とみはなはどちらも楽しそうだった。心の底からホットケーキ作りを楽しんでいた。
音と映像だけでも幸福感が伝わってきて、日々に忙殺され乾いた心が満たされていく。
『できあがりっす』
『できあがりました』
『お皿とってきてくれますか』
『赤いので?青いので?』
『好きなので』
『わかりました』
悦巳がコンロの火をとめる。カウンターにやってきて、コルクの鍋敷にフライパンをおろす。
みはなが持ってきた皿にフライ返しにのっけたホットケーキをよそり、バターをひとかけてっぺんにのせ、冷蔵庫から出したハチミツでひたひたにする。黄金色のハチミツがバターと溶け混ざり、滝のように表面を流れ落ちていく。
『わあ……』
みはなが目を輝かせて感動する。頬は興奮に上気し、食べるのが待ちきれないといった様子だ。
『どうぞ召し上がれ』
『いただきます!』
みはなが両手で皿を捧げ持ち、慎重な足取りで画面から離脱していく。
改めて画面に向き直り、茶目っけたっぷりに微笑む悦巳。
『口ン中よだれの洪水ですごいっしょ』
「お預けか」
『帰ったら誠一さんの分焼きますよ、今作ったんじゃ冷めちまうし……どーせなら焼きたて食べてほしっすもん』
悦巳がくすぐったげにのろけ、誠一の目をまっすぐ見詰める。
『……実はホットケーキって憧れてたんすよね』
「パンケーキのほうが流行ってないか」
『パンケーキはほら、インスタ映えとかフルーツたくさんのっけてオシャレな感じっしょ?俺はもっとこー、フツーのが食べたかったんす。親がうちで子どもに作るような』
悦巳には両親がいない。
子供の頃施設の前に捨てられたのだ。
『……夢が叶ったかな?なんちって』
言ってから頬をかいて照れる悦巳へと、ささやかな悪戯心を起こして微笑みかける。
「愛情は何グラム入れたんだ」
『適量っす』
「適当な量の略か」
調子にのってからかえば、画面の向こうの青年が降参して口を尖らす。
『意地悪っすね、「好きなだけ」に決まってんでしょ』
拗ねた表情にこめられた不器用さが愛しさをかきたてる。
「こっちを向け」
『何っすか』
低く指図してから自分の唇に触れ、その人さし指を液晶に映る、悦巳の唇へ着地させる。
「……画面に指紋が付いた。切るぞ」
ぽかんとする悦巳。
やらかした恥ずかしさに耐えかね、そそくさ通話を切る誠一。
ホットケーキをきれいにたいらげたみはなが、画面の外で『ごちそうさまです』と言った。
最初のコメントを投稿しよう!