願わくば蜃気楼

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願わくば蜃気楼

思わず瞬きをした。  私が見つめていたディスプレイは、背後のドアから漏れてくる廊下の灯りをわずかに反射していただけだったのに、今唐突に青空を映している。背筋がぞわりとするほど高く広がっていて美しいが、日差しが強過ぎるのか埃っぽいのか、少しだけ青天井は霞んでいた。画面いっぱいがそれで、他に映っているものは無かった。どうやら地面に直置きして、レンズが上を向いたままのようである。  映像はしばらく空ばかりを映していたが、ある時から声のような音を拾い始めている。加えて、礫混じりの土を踏みしめる歩幅の狭い足音も。二人以上の足音だ。なかでもとりわけ軽快で間隔の短い足音が、私には意味はとれないがどこかの言語で、しかも歓声を上げながらこちらに近づいてくるのがわかる。  映像がぐにゃりと揺さぶられて、美しい空の下に赤い土の大地が映し出された。彼方には同じ色をした山脈があって、20メートルくらいの地点には遺跡のようなものも見える。少しだけ視点が低い所為か、遺跡は極めて大きく見えたし、空は伸びをするようにまた高く高くあった。それらは一瞬の映像で、視界は再び、今度は水平方向に強制された。  空と大地のシルエットの間にピントが合った時、そこに二人の人間の姿があった。どちらの人物も中東の女性が巻くような、スカーフを頭に巻いて、長い丈の着衣を風にそよがせてカメラに歩み寄ってくる。片方は橙色、もう片方はベージュ色の衣服を身にまとっていた。  橙色の方の女性が、カメラに向かって微かに一言二言述べると、それに応ずるような幼い声が大きく響き、カメラは橙色の女性に手渡されたようだ。視点が一気に高くなり、画面の下の方に小さな影が映った。その子どもは、ベージュ色の服の女性へと駆け寄って、その陰に隠れるようにしてから半身だけをカメラに見せている。少女だった。黒い縮れた髪がスカーフからのぞいていて、その瞳は澄んだ湖のように翠色に美しい。少女の態度が可笑しかったのか、二人の女性が柔らかく笑う声がして、カメラが少し揺れた。少女はベージュの女性の脚に鼻をこすりつけるように抱きついてから、はにかんだ。    画面が暗転した。暗くなりながら青い光を放っている液晶画面には暗く私が映っている。ちかごろ額が広くなった白髪交じりの下に、情けない皺とホクロがいやに目立っている。動画のシークバーは五分六秒で振り切っていた。私は冷えかけた缶コーヒーに軽く口をつける。息を吐いて、椅子から離れて、照明のスイッチを入れた。  明るくなった部屋を見渡す。オフィスデスクとそれに付随した、パソコンをはじめとする電子機器の数々は持ち主の失踪によって、今はもうただの置物になっている。私の座っていた席の筐体だけが、USBメモリを忘れられた枝のように一本生やして、唸っている。  この部屋は一週間前まで、岩塩を輸入販売するシリア人たちのオフィスだった。彼らは大変気がよく真面目な人々で、ビルのオーナーである私は、この国の人間よりずっと信頼を寄せていたと言っても全く過言では無い。義理も人情も、おおらかすぎるほどの優しさもある人々だった。  USBメモリには文字が書かれている。私には読めない文字だった。シリア人に聞くと、「家族」と読むのだと言っていた。そのくせ、中に保存されていたたったひとつの動画ファイルにはローマ字で「test」とあった。  今朝ニュースで流れていたパルミラという遺跡がどこにあるのかは、きちんと聞いていなかった。けれど、その遺跡がひどく破壊されたことだけは知っている。  私にはただ、「どうか」と、普段信じてすらいない神のようなものに言い訳のように呟きかけることしかできないでいる。数百倍、敬虔な人々の、どうか平穏無事であることを、もう半ば諦めながら祈るしかできないでいる。
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