そんな夏だから

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そんな夏だから

「申し訳ございません。ここ最近、想定外に早い夏の到来で修理のご依頼が殺到しておりまして…明日の午前二時半から午前五時まででしたら…」  そう返されたので「ならいーです。ありがとうございまーす」と、謝意を述べてから受話器を置いた。持ち手の背に「ちゃんと置く」と印字された飾り気のないシールが貼られてある受話器は少し、濡れている。涙ではない。汗だ。いや、あるいは涙腺から流れない類いの涙かもしれない。あれで五件目だった。  諦めのついた私は、溜息をついて、自分の呼気の熱さにさらにげんなりしながらバックヤードを出た。  開店直後。ホールはいつも通りのいたって平凡なダーツバー。薄暗い景色、閑古鳥が鳴いている。数十の、四人程度で囲うような小さな円卓が所狭しと並んでいる。天板はくまなく拭いておいたので、天井のオレンジ色の照明できらりと光っているけれど、かえってそれがわびしい。二面の壁沿いには電源入力とネットワーク接続を確認し終えたダーツの筐体たちが、得点用のディスプレイにコラボレーションキャンペーン中のアニメのループ映像を流しながら、たたずんでいる。わななく換気扇の音までが日常で、ただエアコンが故障していることだけが非日常だった。  地下にあるこの店舗は、地上と比べればいくらか涼しい。それでも、酸素の供給をほぼ換気扇に依存しているこの店舗は、新鮮で人肌ちかくまで温められた外気の来店を余儀なくされている結果、閉塞感も手伝って出来の悪いサウナのようだった。  いますぐベストを脱いで襟を開き、下着が見えることをいとわずに足を広げてうなだれながら、冷蔵庫にあるジンジャーエールを喉に流し込みたい。しかしそれは出勤して四時間程度過ぎてから思うべきことで、まだ始業時間から十分も経っていないうちに妄想するものではない。  …できることを考えて、肩甲骨まで伸びた髪を結うことにした。普段、耳を見られるのが恥ずかしいのであまりやらないが、この際どうでもいい。背に腹は代えられない。  マスクも邪魔だと思ったが、どうも外す気にはなれなかった。メイクもきちんとしているが、やはりなんらか抵抗がある。襟を開けておく気恥ずかしさに似ている。  少しして、エレベーターの方から唸る音が聞こえた。店舗とエレベーターは直通になっている。床掃除のパフォーマンスをしながら目を遣ると、ゆっくりと開いた扉から高校生くらいの少年が降りてきた。こじんまりした子だ。約170センチある私の肩くらいまでしかない身長で、猫背気味。眼鏡の下の瞳が、明らかに警戒の色を示していた。バックパックの肩ひもを低いところで握って、力んでいる。緑色のTシャツに頭から羽を生やしたどこかの部族の男性のシルエットが黄色でプリントされていて、絶妙にダサかった。 「いらっしゃいませ。高校生の方ですか?」 「は、はい。あの、大人じゃないんですけど」 「酒類のご提供は法律上できませんけど、ソフトドリンクなら。ダーツプレイはワンゲーム百円でご利用できます」  少年は、私の説明に逐一、首肯で返してくれる。時々、店内に視線が移って、自分の他に誰もいないことにほっとしているようだった。 「別途、チャージ料がかかります。680円になります。何か、全体を通してご質問ありますでしょうか」 「チャージ…」 「はい」 「チャージってなにをチャージするんですか…?」  結局答えられず、かわいく笑ってごまかした。少年も困り顔で笑い返してから、ホールの隅の席を選んで座った。    注文を受けたスプライトをグラスに注いでカウンターから出ると、少年は席に座ってじっとしていた。 「スプライトです」  差し出すと、会釈してから飛びつくように手に取って、音を立てて飲んだ。膝がきゅっと閉じていて、窮屈そうだった   瞬く間に飲み干して、グラスを置いてから、「あの…」と切り出してくる。 「俺、あの、投げるやつ持ってないんです。買った方がいいですかね」  ダーツは貸し出せる旨を告げると、少年は安心したように息をついた。  ダーツを六本、それからおしぼりを。さっきと同じお盆に載せて席に向かうと、少年はダーツの筐体の前で固まっていた。おおよその検討はついていたので、操作方法を説明するために近づくと、彼は驚いた様子で振り返った。怯えの表情を見せて、「ごめんなさい」とのっけから謝罪した。なんだか悪いことをしたなと思う反面、ビビりすぎ、とも思った。  ダーツの筐体は別に難しい操作があるわけでもない。ショッピングンモールのゲームセンターにあるような筐体となんら変わりなく、100円玉を入れる箇所があって、そこにプレイヤー人数分を投入する。あとはゲームモードを選ぶだけだ。  カウントアップというルールがあって、これが初心者向け。単に、得点をたくさん獲れば正義。とりあえず100円を投入することを促して、早速投げさせてみることにした。  さすがに事前に動画でも見てきたのか、投げるフォームは悪くない。1ラウンド三投の8ラウンド中、一度だけブルを射貫いていた。素直に感心して、「やるじゃん」と接客態度カウンター置きっぱなしの口調で褒めると、彼は照れながらも嬉しそうに「あざっす」と笑う。  せっかくだから、と、私も参加する気になって、「混ざって良い?」と誘う。入店したての緊張感とは別の様子でぎこちなくなった彼は、「はい」と応えながら、溶けた氷のたまったグラスを手に取って、なけなしの水で舌を湿らせていた。  水で満たしたグラスとマイダーツを持って戻ってくると、彼はすすんで筐体に歩み寄って、100円玉を投入した。歩み寄って、私もポケットから小銭入れを取り出し、追加で100円玉を入れた。ふと見下ろすと、彼の首元を汗が伝っていて、そういえばここはひどく暑かったのを思い出した。  次のルールはゼロワンだ。特定のスコアから減点する要領で得点をとっていって、お互いの持ち点をゼロ点により近づけたプレイヤーの勝ち。ゲーム内容を説明すると少年は自信がない様子だったので、「カウントアップにしておこっか」と尋ねてみると、首を横に振った。ダーツを握りしめて、「せっかくなんで」と見上げる。 「いいね、格好いいじゃん」  もちろん経験者の私が有利だけど、こういうものに絶対はない。  試合は白熱した。  このルールは序盤で高得点をとりまくって、終盤で少しずつ削り、ピンポイントの得点でとどめを刺すのが定石だ。そうすればゼロにできなくても勝ちに近づける。  手加減して遊ばせてあげるつもりだったのが、少年のビギナーズラックというべきか、彼は20点のトリプルスコアを出しまくった。ダーツボードは中心のブルズアイを除いて帯状の円が四重になっている。内側から一層目と三層目の帯は、中心から伸びた放射線で縦割りに区切られた区画でお決まりの得点しか獲得できない、幅の広い帯だ。しかし二層目と四層目は極度に狭く、ここを射貫くとその区画で決められた得点の、三倍、二倍の点が獲得できる。狙って当てるのは結構難しい。  ダーツを握って投射するまでの少年は、一回一回をおざなりにする様子がない。  スローラインを踏まないよう目視で確認して、フォームを作る。  慣れていないからか、投射まで息を止めて、ダーツボードを睨む。額に汗が浮かぶ。  ダーツを握った手を数度デモンストレーションするように前後して、はじくように投射する。  息をついて、得点を見て、一喜一憂する。  三回投げたら筐体に近づいてエンターボタンを押す。順番が譲られる。  こちらに振り返る直前、彼は筐体の上部についたディスプレイを必ず確認していた。立ち止まったりはしなかった。スムーズに順番を譲るべきだという、生真面目さからだろう。振り返る途中の、半身になって見える彼の口元は、浮足立った高揚感で緩く結ばれていた。 「どうぞ」と、再び固くなった表情で言う。額の汗が流れ落ちて、鼻梁の脇を滑っていく。  眼鏡を外してそれを拭ったとき、目元に少し隈があるのが見えた。フレームに隠れて見えなかった陰だ。青年らしい目元だった。 「いいね。イケメンじゃん。眼鏡、コンタクトにしたら?」  彼は「適当言わないでください」、と噴き出して、正面に座った。それから結露に濡れたグラスを持ち上げて、額に押し当てる。  汗と部屋の熱気の結実が、青年のまつげを潤わせて、瞼から首元まで流れていく。  夏の放課後、部活動の後、蛇口の前にふたり。汗を拭いながらカルキ臭い水をがぶがぶ飲んで、好きだった男の子とだらしなく笑っていた時のこと。それは何かに投げやりじゃなくて、新鮮なすべてに全力で、箸が転がってもおかしかったころ。 「気持ちいい、ですね」    彼が言った。 「ね」  私が答えた。  少し驚いた表情で、少年は私を見る。その視線にはっとして、おそろしく恥ずかしくなって。そして、あきらめた言い訳をする。 「きっと、さ」  暑さで、朦朧としているのだろう。  仕方ない。エアコンが壊れている夏だから。
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