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   半開きの扉の向こうから足音が聞こえてくる。だんだんと大きく、広くなってくる。教室中が耳をそばだてていた。  ガタついたサッシを刻むように走る車輪の音。扉は完全に開け放たれた。瘦せぎすの須崎先生。濡れたビニール傘みたいな彼は左の脇に出席簿を抱えて、神経質そうな大股で闊歩する。誰も、一言も発さず、彼は迎えられた。  黒板を二分する線になった彼は深い溜息の後、教壇に黒い出席簿を投げ打った。鞭打つようなその音に誰かが肩を震わせた。その振動は教室中に伝わる。残響も絶えないうちに、削れ切った声。 「おまえら、もう帰っていいぞ」  一瞬間の沈黙と、静かなどよめきとがあって、先生に注がれていた教室全体の意識が、机の間で無数に交差した。そのひとつひとつは少しもしないうちに頷きあって、鋭くなって、余さずまとまって、束になって、冷ややかに射し向けられた。  僕へ。  戦慄と一緒に、激しく震撼しはじめる恐怖心。腹の奥の奥、その底で灰色の重い穴だらけの石のかたちをとって、表面から無数の、小さな不安の泡を吐き出し、神経の一本一本を持ち上げる。それが物理的な痛みを生み出して、僕の猫背を酷くさせる。教室の空気と僕の肌の境界を歪ませるほどの質量が、十二指腸のあたりに鎮座しているのだ。その僕を中心としたひずみが産んだ重力が、髪の間から、肩の向こうから、真後ろから、教室の角から、ひとつの例外もなく三十六の視線を引き寄せている。全身の粟立ちが抑えられなくて、僕の右手の爪は左手の甲に食い込んで叫んでいた。  縋るような視線だけを、ただ慎重に黒板へ向けた。須崎先生は顔色ひとつすら変えていない。いつものように、白髪混じりの右の眉から一本だけ長く伸びたそれを、不機嫌そうに弄んでいるだけだ。 「おい、もう下校時間だぞ。ホームルームは無し。さっさと―――」 「先生、俺、納得いきません!」  苛立ちを隠さない先生の指示に、椅子を跳ね上げる音と、使命感を混入させた誠実そうな声が被さった。同時に刺したり抉ったりしてきていた視線が外れたのがわかった。体温が戻ってくるのを感じた。息をしていいらしい、などという見当違いな心の声が脳裏に閃いて、そのあまりの情けなさに泣きたい気持ちになった。 「いしか…」 「絶対そうじゃないすか」 「石川、おちつけ」 「二時間も!話し合ってみんながっ…考え抜いたじゃ、ないすか…!」 「気持ちはわか」 「だって先生も言った!『火のないところに煙は』っ…!」 「石川あッ!」  教壇の蹴り上げられた音と怒鳴り声が、生徒たちに緊張と怯えを強いる。肩で息を切っているのは石川と、須崎先生だけだ。ほかの誰もが、木偶のように肉の湾曲だけを残して固まっている。石川の呼気には明らかな気圧された動揺があった。けれど手はこれでもかときつく拳になっていて、腿に押し当てられている。正義感でできたクレーターが、スラックスに放射状の皺を作っている。  二十秒くらい、ふたりは力んだ呼吸音で会話していた。それが僕には聞こえた。先生が不本意と慈愛をないまぜにして、のっぴきならないところで興奮している石川を説得しているのだ。美しい関係だ、とても。  須崎先生は無言の対話を止めた。 「…三組の猿島が水槽にチョークの粉を入れているのを見た生徒がいた。話はここまでだ。お前ら、帰れ」  努めて冷静に、これで引き下げれと言わんばかりに、言い切った。  わっ、と教室中に黄色い声が満ちた。改めて帰宅を促すあの須崎の大声が、かき消されるほどの喧噪だった。「え、まじ」「やばくない?」「だっるちげえじゃん」「チョークの粉って毒なんだね」「野球部、ピロティーしゅーごーな」「石川くんさ」「ウーパールーパー、かわいそう」「バス乗れねーわ。まーじくそ」「なあ帰りどうする?」「カラオケか、クラブでしょ」「昨日彼女とさー」…  少しずつ会話の内容が外向きになって、五分経ったら声まで外に行って、そうして十分後には蟲の羽音みたいな蛍光灯の歯ぎしりだけが教室に残った。  視線がひとつだけ、僕の頭頂部に向けられていた。うつむいていても、「出席簿」の三文字が前髪の隙間を縫って、覗き込むように僕と視線を合わせようとしていた。思わず目を瞑った。こうしていれば見つからないで済むかもしれない。 「野村お前さ」  投げかけられた言葉に、慈しみの欠片すらも無いのがわかって、はっとして目を開いた。 「生物研だったろ。水槽の後始末、しておいてくれ」  どうして。 「くさいんだよ」  何が。 「な?」  こんな風にしてしまったんだろう?  理科室の前の蛇口を全部開けて、白く濁った水が満ちたガラス水槽を放り込んだ。  ステンレスのシンクが出来損ないのシンバルのような騒々しい音を立てた。水槽は割れなかった。僕は流しに背中を預けて、床に座り込んだ。噴き出した水が底板を絶え間なく叩く音に、頭がぼんやりしてくる。  シンクから飛び跳ねた水が少しずつ飛んでくる。水槽の中の水だろうか、腐臭がたまに鼻を突く。  廊下に残滓を残していたはずの夕日さえ、気づけば僕を温めてくれないところに隠れてしまって、床のしんとした冷たさが腰まで上がってきていた。放課後の校舎に滞まった感情たちを吸い上げているんだなあ、などと納得して、堪らなくなる。  あっという間にシンクの排水機能は許容量を超えて、ゴボォゴボォと、配管から汚水を押し戻す。排水口の蓋がカチャカチャと笑うように振動する。釣られるように唇が震えだす。溺れてるみたいに苦しくなる。首元が、髪を伝って滴った水道水で冷えていく。身震いして、目を閉じる。  教室の風景が瞼の裏で蠢いた。吹奏楽部の、チューニング時間の、あの不協和音が鼓膜を苛む。みんなの頭が揺れている。一斉に振り向く。無数の髪が踊り狂う。排水管から吐き出された髪の束が、シンクから氾濫して、僕の首を絞め上げて――  溺れてしまう。  口に手を突き入れて、食いしばっていた口をこじ開けた。どさくさで傷つけた歯茎から血が出たのがわかった。痛みではっとした。  水はまだ、着々とシンク注がれているようだった。  僕は水面にやっとのことで浮かび上がったように激しく息を続けた。  短いスパンで呼吸した。  やがてそれは横隔膜を引き攣らせる奇妙に軽快な音になって、それだけでは形の定まらないものが暴れ狂う轟音の中で小さな嗚咽になった。  それはサンショウウオの幼体の鳴き声に、似ている。  
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