風、あたり

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風、あたり

「ここはいいところだよな」  彼は我が家に顔を出すたび、上がり框を撫でながら言う。今日も私の好きなブランデーを一本片手に提げていた。「先週も持ってきたじゃないか。呑み切らんよ」と諭しても、「お前が気持ちよく酔えないんじゃ、俺は邪魔者だろう」と、こういったやりとりを既に五年近くしている。  比較的緑が多い郊外で、そのうえ隣家も無い、雑木林の中にぽつねん建った貸家にひとり暮らしている私をすれば、他人の訪問はそれ自体が希少だ。しかし彼は必ず、風の強い日の夕方、彼の住まいである都会のアパートの一室を避けて我が家にやって来る。そのためその頻度は少なくなく、季節によっては連日訪ねてくるのもざらだ。土曜、日曜以外には背広でやって来ることにも、慣れきった。 「今晩中に済むかな」 「どうだろう。しばらく強いようだけれど」  少し開いた玄関の戸の向こうで鮮やかな緑を、斜陽を透かして発光する若葉たちが落ち着きなく見えている。ささやくような木の葉の慣れ合う音が、雨粒を思わせる忙しさで聞こえてくる。振り返っている彼の、なんと不安げなことか。 「まあ、連泊は珍しくないだろう」  励ますように言ってやると、「悪いな」と、絞り出すような返事があった。  私たちは食事の後に酒宴を行うのが決まりになっていた。多く飲むのが目的では無かったからだし、ことさら彼がそれを望んだからである。黙々と一汁三菜を胃におさめて、それぞれ風呂を済ませたら、後は卓袱台でお互いグラス片手に向かい合わせになっている。  彼はいつもよく喋った。同じ職場で働いていた頃から口数の多い人間ではあったが、こうして酒宴を開くお決まりの夜には、何かに急き立てられるように言葉を発していた。以前、喉を痛めながら今日のように訊ねてきたときは、わざわざ往路でラジオカセットを買ってビニール紐で体に縛り付けて玄関を叩いたものだから度肝を抜かしたものだ。どうしても音が鳴っていないと気が済まないらしい。  時計の針が一日の終わりにさしかかろうとする辺りで、私が尿意を催した。用を足しに行く素振りを見せると、彼は口を閉ざして、すかさずラジオカセットに手を伸ばし、コンセントを壁の受け口に差し込んだ。たちまち、どこかのラジオ局に繋がって、大音量のミュージックが漆喰の壁を震わせる。私は居間の戸を開けて、廊下に出た。  壁を一枚隔てて廊下に出るだけで、外の強風がいやに耳につくのがわかった。これまで聞いたことが無いような、竜が腹の底から唸りを上げているような、凄まじい圧力の風音である。低い地響きのようなそれと、夥しい数の風切り音が辺りをまんべんなく駆け抜けているらしい。雑木林を揺さぶるほどのそれだから、私の借りているこの小さな物件に対しての影響は少なくないだろうと、ささやかな憂慮さえある。明日の朝が憂鬱になった。暗い板張りの道を突き当たりまで進んで、トイレのドアを開けた。  少しひんやりとした座面に腰かけて用を足していると、不意にバツンと太いゴムの切れるような音がして、目の前が真っ暗になった。どうやら、ブレーカーが落ちたようだった。私は特に急がずに、手探りで済ませることを済ませて、ドアを開けた。  廊下は少し前に通った時より一段と暗く、風の音も一層不気味に聞こえた。家中の軋む音が絶えず響いていて、巨大な生物が空気と一緒にこの家を吸い込んで、いま腹の中でぜんぶをすりつぶそうとしているのだという錯覚すら頭を過った。  居間の電気は消えていて、漏れ来る光も無い、外をうねる強風のために音も聞こえない。私は居間に繋がる引き戸をほんの少しだけ、一条の悪意ある風を忍び込ますことのできる程度に引き開けて、中を覗いた。  真っ暗な部屋の隅に彼が居て、震えながら身体を丸めて居た。しきりに「ごめんね、ごめんね」と声を漏らして耳を塞いでいた。謝罪は自分で聞こえていないのだろうに、必死にそう呟いていた。その姿は夜風に甚だしく怯える子どもそれと相違なかった。  彼の住まいの隣室では強烈な虐待があった。その訃報には世間が大きく騒いだ。日々の職務に忙殺される彼は、全ての阿鼻叫喚に耳を塞いだ。全てを強風のせいにしたのだと、ここに来た初めての夜に語っていた。  私はこうして無言で立っていることで、彼をひどく軽蔑していたことに、今気付いたのだった。
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