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1話
人攫いのバカたちの荷台から逃げ出さなかったらよかったのか、村のはずれまで水を汲みに行かなければよかったのか、誰でもいいから水くみ場までついてきてもらえばよかったのか、そもそも別の仕事を優先すべきだったのか、後悔しても仕方がない事ばかりが私の脳裏をかすめていた。
まだ普段着で助かった。
攫われる時に抵抗したから汚れて少しボロボロになってしまったけど、この程度なら洗えばいいし、繕えばいい。それに動きやすいから走りやすい。ただこのままではこの汚れた服も、半刻も経たないうちに野犬の腹の中に納まるだろう。
昨夕、夕飯の鍋に使おうと思っていた水が足らなかった。昼間暑かったから誰かが余分に水を飲んだのだろう。とりあえず、鍋と朝食の分だけでも水が必要だったから1人で村はずれの水くみ場へ向かった。昼間ならいつも誰かしら人のいる場所だからと、油断をしたのもまずかった。
水を汲んでいる途中、がさがさと茂みから複数の物体が動く音が聞こえてきて、振り返った時にはもう薄汚い男達が間近に迫っていた。できる限りの抵抗はしたがすぐに口が塞がれ、手足は縄で縛られて自由を奪われ馬車の荷台へ投げるように閉じ込められた。荷台には誰にもいなかったけど、攫われたことはすぐに理解できた。
荷台へ投げ入れられた際に頭を打ち気を失ったからか見張りもつけられず、荷台の鍵も非常に簡素な出来だったことが不幸中の幸いだった。縄も雑に力まかせに縛られていた為、何とか抜け出すことができた。鍵を壊す音は、車輪の音にかき消された。
馬は全力で走ってはいないものの、ゆっくりと上品に降りる余裕はなさそうだ。舗装もされていない凸凹とした足場の悪い馬車道だったから、たまに荷台が浮かび、大きな音を立てて荒々しく叩きつけるように地面へ着地することが幾度もあった事を思い出した。
荷台が浮かびそうな足場の悪い道を通るタイミングと同時に、飛び降りて逃げた。すぐ茂みに隠れて息をひそめたが、人攫いのバカたちは私が逃げた事には気付かず、そのまま遠くまで行ってしまった。
気を失っている間に真夜中になっていたのだろう、月は頭の真上で輝いていた。虫の声もせず、風が森を通り抜ける音と、知らない鳥の鳴き声だけが聞こえてきた。不安と寒さと空腹感で眠ることもできなかった。
明るくなるのを待ってから馬車が来た道の方へと戻った。でも、私は生まれ育った村から出たことが無く、村が国のどのあたりにあるのかもよく知らない世間知らずという事に、荒れた道を勘で進むしかないという事実を突き付けられて気付く。
馬車道はいつの間にか道とも森とも見分けがつかなくなり、人にも出会えず助けを求めることもできなくなる。だがしばらく歩き続けると、小さな泉を見つけた。「水があればしばらく生き延びることができる」と父が教えてくれたのを思い出し、少しの間そこで休むことにした。
ありがたいことに泉の水は見た目は綺麗だったから、抵抗なく乾ききった喉を潤すことができた。水を思う存分飲んだら、少し落ち着いて涙がはらはらと落ちた。
太陽が頂点を少し過ぎた頃だった。休んでいる間にシカや小鳥などもやってきた。体力の限界が来て意識が飛びかかっているなか、「ここは森の中の水くみ場だったんだなぁ」とぼんやりと考えていた。だが、動物たちが突然飛び跳ねるように慌てふためいてその場から四方八方に逃げていく。咄嗟の事で、美しい泉の水が赤黒く染まっているのは、血で汚れたからという事実に一目で気付けなかった。
――野犬だ。
鳥の首元に痩せた野犬が噛みついたまま、こちらをじっと見つめながら鳥が死ぬのを待っている。
死んだふりをすべきだろうか、いやそれはクマだ。野犬に襲われそうになった時の対策なんて教えられていない。でも、今、相手は食欲を満たしているのだから、きっとこちらには向かってこない。大丈夫。大丈夫。そう自分に言い聞かせてなるべく刺激を与えないように後ずさりする。
2匹目の野犬が現れてからはその希望も奈落へと消えた。
地の利もない、足場も悪い、どう考えたって最悪な状況だとしても、犬の餌になるのはまっぴらだ。すかさず足元に散らばっていた手のひらほどの石を拾い上げて、とっさに大声で威嚇をしようと「来ないで」と叫んだつもりだったが、声が裏返って大きな変な音が出た。野犬はこちらを見ながら唸り声を上げている。
鳥を咥えた方の犬は唸ったり、敵意を向けてはこないものの、私から視線を外さなかった。この人間の命運がどうなるのか見届けるつもりなのかもしれない。
襲いかかって来ず、にらみ合いは続いた。逃げた鳥たちのうるさい鳴き声とは対象的に、野犬に咥えられた鳥はもうぐったりとしていていることが印象的だった。2匹目の野犬は私を睨みながら、たまにけたたましく吠えてきたが、それ以上は近付いてはこない。ただ、私は自分が思っていたより小心者だった。目を一瞬そらした瞬間に野犬が大声で吠えてきたことに驚いた私の体が勝手に石を投げつけてしまったのだ。
宣戦布告と受け取った野犬が距離を詰めてくるのが見えた。慌てふためき何が正解かわからなくなった私は甲高い叫び声を上げながら泉へと走った。ただ、泳ぎには自信があると思い意気込んだ場所だったが、最深でも私のふくらはぎ程度しかない浅い泉だった。水しぶきを上げながら「来ないで」「やめて」と叫びながら奥へ奥へと逃げていく私を野犬は狩りを楽しむようにじりじりと距離を詰めてくる。
どこで間違えたんだろう。昨夕までは苦労らしい苦労もしてこなかった世間知らずの娘で、本当なら家族と夕食を食べて、温かい寝床で寝て、何ら変わらない1日を終えるはずだった。まだ16なのに犬に食われて死ぬ最期なんだろうか。こんな惨めな終わりは嫌だ、誰か助けてほしい。お願い、誰か、お母さん、神様、助けて……。
その時だった、「キャン」と犬が鳴いたかと思うと、次に飛んできた何かが心臓に当たったようで、やがてゆっくりと倒れた。鳥を咥えた野犬も何かを察して逃げたらしい。激しく揺れていた水面もやがて落ち着きを取り戻しつつあった。
野犬には2本の矢が刺さっていた。誰かが射殺したんだ。もう安全だ…。危険が無くなると体の力がすっと抜けるとその場に尻もちをついてしまい、再び水面が揺れた。
茂みから汚れたマントをかぶった人が出てきてこちらへ向かって歩み寄ってきた。逆光でよく見えなかったが、背丈からして男だと思った。子供の背丈ほどありそうな弓矢を片手に持っている。
「おーい。」
10mほど離れた岸辺から話しかけてきた声は、それほど低くはないがやはり男性のものだった。
「大丈夫か。」
返事をしたかったけど声が出ず、少し遅れてこくこくと頷くしかできなかった。
「立てる?」
それくらいはできると思ったが、人は腰が抜けると力が入らないことを学んだ。立ち上がるのに難儀していると、それを察した男性は弓矢と脱いだマントを足元へ置くとジャブジャブと音を立てて泉の中へ入ってきた。
「このあたりは野犬のテリトリーだ。何で入ってきたかは知らんが危ないところだったな、過去には食われたやつもいるらしいから。」
逆光もマシになって段々と姿がはっきりと見えるようになった。歩き方と肌の艶で若い男だとわかった。もっと近付いてくると顔をはっきりと見ることができた。上等な絹だけを使った白金の織物のような、王族にしか許されない美しい白馬のたてがみのような、いやそれこそ世界一美しいと持て囃される美女を連想させる、美しい金髪の持ち主だった。差し込んだ光により明るい髪は更に輝いていて、天界にいるという天使という生き物はきっとこの人のような髪なんだろうと思った。
「怪我でもしてるのか?」
立ち上がれない私を気遣ってか、同じ目の高さまでしゃがみこみ、私の顔を覗き込んできた。見たことのない目の色だった。
あとほんの少しで夜空になる直前の黄昏時のような深い紫だった。私の何の飾り気のない真っ黒な髪と瞳とは全然違う、まるで別世界の人だ。
顔立ちも端整で私の周りにはいない種類の顔つきだった。違う民族の人なのかもしれない、私はそんなに遠くへ来てしまったのだろうか。
現実感のない外見に見とれて放心していたが、しばらくして大丈夫だと伝える必要に気づいた。そして、やっと「大丈夫です」と返すことができたが、また声が裏返って死にかけのカエルのようになってしまったことが恥ずかしくて愛想笑いをしてしまった。私は咳払いをして喉の調子を整えた。
結局立ち上がれなくて初対面の男性に横抱きされて、泉を脱出することができた。服は全身がびしょびしょに濡れていて体がいつもより重く感じた。それと足を捻ったらしい、男性に添え木を当ててもらい簡単な処置をしてもらった。服を絞り、男性に借りたタオルである程度拭き取ったらマントを貸してくれたので、それを羽織った。
男性の服も私を抱き上げる際に濡れてしまったようで、1度脱いで適当に絞っている。それを見て、女の私は少し羨ましく思った。
分けてもらった水筒のお茶とパンを食べるとほっとしてまた泣きそうになったが人前なのでこらえた。
「あんたどこから来たの」
いつの間にか男性が泉へ馬を連れてきて、乗馬のための準備をしている。どこにでもいるような栗毛の馬だったが毛艶がよく大切にされている事が伝わってきた。
「トルトゥーガです」
「トルトゥーガ?聞いたことないな。」
「小さな村なので……。ケローネにあるはずなんですが」
私はケローネが地図上でどこに当たるのかわからないけど、ケローネからここは女の足で移動できる距離じゃないと驚かれた。そして「何があったんだ」と尋ねられたので簡単な経緯を説明した。
馬に乗せてもらい、ひとまず彼の村へと行くことにした。
彼はハル・ユリウスと言うらしい。
小一時間ほどの道中の中で、当たり障りのない範囲の身の上話をした。ハルさんは本当はうさぎの1匹や2匹でも獲ろうと思って今日は森へ訪れたこと、野犬の吠える声がうるさかったから見に行ったら人が襲われていたこと、野犬は食うところも少なく毛皮も粗悪で売れないから置いて帰ること、弓矢は得意だが普段は村で、家の仕事をしていること、結婚する予定の女性が気が強くて将来が心配なことなど教えてもらった。
私は小さな子が父親に守られるように前に乗せられた。2人乗りなら本当は後ろのほうが良いと思うけど、体に力が入らなかった。それをわかってくれているのか、揺れないようにゆっくり歩いてくれる優しい馬だった。
私も名前を伝えた。そして、歳は16で、ほとんど村から出たことがないこと、兄弟がたくさんいること、体を動かすことは好きだが両親からあまり良い目をしないので不満なこと。そして、結婚については父が相手を探してくれているけどまだ決まっていないことなどを話した。
村に着くとハルさんの家へ行き、すぐに風呂に入れさせてもらった。ハルさんのご両親はぼろぼろになった私の姿を見て大変驚いていたが、風呂から上がった頃には彼から説明を受けたらしく、涙と鼻水を垂らしながら同情された。服を借りて、ひねった足に湿布と清潔な包帯を巻いてもらい、温かいお茶やお菓子をごちそうになったが、疲労が限界を超えたのか気付いたら眠ってしまった。
そして翌日、いつもより遅い時間に起きた私は、「私はハルさんの嫁になること」となる。
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