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「え?」
何を言われたのかと思った。存在しない? それは……。
「声と文字列で、まるで『いる』ように見えるけれど。ウェブ上を漂う幽霊のようなもので。本当は、人として存在などしていないとしたら」
どうしますか、と。彼女は言う。
荒唐無稽な話だ。ウェブ上の幽霊? どこぞのアニメじゃあるまいし。
だけど、そうだ。
俺にとってのいつもの面子は、住んでる場所も性別も職業もばらばらであるし、そもそも知らないことも多い。知る必要もないと思っている。
もちろん顔も本名も知らなくて、ディスプレイに映し出されているのはそれぞれが設定したアイコンとハンドルネーム。
これだけあれば、俺たちにとっては十分だ。
……十分だと、思っている、けれど。
その向こう側の顔を、肉体を、俺は今まで一度も認識したことが、ない。
もちろん、今喋っている彼女だって。
果たして沈黙した俺を、彼女はどう捉えたのだろう。しばし、俺と彼女の間に沈黙が流れ、やがて「ふふ」と小さな笑い声が聞こえてきた。
「なんて。冗談ですよ」
そう、冗談だと彼女は笑う。なのに、何故だろう、その声に微かなノイズが混ざって聞こえたような気がして仕方ないのだ。
「また、誘ってくださいね。それじゃあ、」
――おやすみなさい。
その声を残して、黒猫のアイコンもディスプレイから消えた。唯一残された俺も、ボイスチャットからログアウトする。そして、椅子の背もたれに深々と寄りかかる。
ウェブ上を漂う幽霊、と彼女は言った。冗談だと言われながらも、何故だろう、広々とした空間の中に漂う、形も定かでない女の姿が頭の中に焼きついてしまった。
ただ、その一方で、彼女はこうも言っていたじゃないか。「楽しかった」と。ならば、きっと、それでいいのだと思うことにする。
結局のところ、彼女の言葉が本当に冗談なのかを確かめる手段は、俺にはないのだから。
グラスの底に一滴だけ残ったウイスキーを舐めて。
その風味をウェブ上の幽霊が知りえることはあるのか、なんてことを、考えた。
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