48人が本棚に入れています
本棚に追加
序章
重い鈍色の空。降り続く雨に街は紗幕を被ったように灰色に沈む。
雨の臭いが充満した静かな車内。
心臓の鼓動のような振動は、眠りを誘う。
不意に重くなった瞼を引き開けて、傘の柄を握る手に力を込めた。
(この雨はいつまで降り続くのかしら)
車窓を流れる雫を睨んで、細く息を吐いた。
憂鬱になるのは湿った空気や雨粒だけが理由ではない。
眠りたくなかった。
(眠れば――あの夢を見る)
雨の日に繰り返し見る夢がある。
何故その夢を見るのか――理由は分からない。
心地よい揺れに再び重くなった瞼は抗い難く、ずるりと意識が闇に飲み込まれた。
――ぽちゃん。
ひときわ大きく響く、水の音。
驚いて目を開けた。否、はずだった。
――暗い。
気が付くと周囲は薄闇に包まれていた。
目の前にあるのは湿った苔のついた石の壁。
――寒い。
立ち尽くした胸まで水に浸かっていた。
どうしてこの場所にいるのか、分からない。
――薄暗く、黴臭い。
ひんやりと冷たい空気と水は体温を奪い、寒さに肩を震わせた。
水の中で自分を抱くように腕を抱き寄せた。
(――まただ)
立っている場所は暗く、そして狭い。両手を広げれば壁に手が届きそう。
石の壁は身の丈をはるかに超え。見上げるほど高い。
天井の代わりに見えるのは、丸く切り取られた藍色の空。
薄雲のベールをかぶった、頼りない三日月が見える。
月明かりは弱く、周囲を照らすには足りない。
「――誰か……!」
不安で漏らした声は割れ鐘のように響き、鼓膜に突き刺さり、痛む耳を塞ぐ。
(ここから、出なければ)
壁に触れた手のひらが、ぬるりと滑る。かすかな水音を立ててはがれた苔が沈んでいく。
(あれが来る)
苔がはがれた壁をひっかき、隙間に指がかかった。
だが、わずかな手がかりではここを抜け出すことは叶わない。
「誰か……!」
助けを求める声に応じる者はない。
冷たい水に体を震わせ、再び壁へと手を伸ばす。
手掛かりを求めて壁をひっかく。やがて爪が割れて指先が赤く染まった。
水面にぽたりと滴った、血の色。
刹那、視界をよぎったそれに頭を打たれ視界が赤く滲む。
頭上に子供の笑い声を、聞いた気がする。
最初のコメントを投稿しよう!