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第一話
気づけば、俺1人を取り残したように周りの時間が流れていた。
カラリ、とグラスの中の氷が音を立てる。じわじわ溶け出したそれはアルコールと分離して琥珀色の液体を際立たせた。
仕事の後、先輩の青山さんに金曜日だから付き合ってくれと珍しく誘われて、着いてきたらこれだ。
愚痴の内容は、最近巷で流行っているマッチングアプリ『hug me』で出会った女性に恋をしていたが、結局ぼったくりバーに連れていかれ、10万円を毟り取られた…というなんとも可哀想な内容だった。
喋るだけ喋って酔い潰れ、隣で寝息をたてている青山さんををどうやって送るか考えあぐねていた。
自分も自分で酔っている、そんな状態で自分より幾分図体のでかいこの男をタクシー乗り場まで運ぶのは一苦労だ。
しかしこの雰囲気の良いバーで、大声で起こすのも気がひける。
「青さん、潰れちゃったんですね」
「え…」
バーカウンターから聞こえた中性的な声。その声が聞こえた方を見やるとグラスを拭いていたバーテンが伏し目がちにくすくすと笑った。薄い蜂蜜色の髪の毛を耳に掛ける姿に優美さを感じさせる、線の細い男だった。俺よりはいくつか下、だろうか。
「ここの常連なんだっけ、青山さん…」
「えぇ、専らデートの時か1人の時にしか来ない印象でしたけど…突然すみません、双木と言います」
「あ、夏目っす…」
線の細い男…双木君、が少しはマシになりますよ。と薄まった酒を下げた代わりに水をコースターの上へ置いた。それを飲んだおかげか、頭の中が少しスッキリした気がする。
「下までタクシー呼びましょうか。店から少しタクシー乗り場まであるし…まだ電車も走ってるから呼べばすぐに来ると思いますよ」
動けなくなった酔っ払いの相手にはもちろん慣れているだろう双木くんは、すぐにタクシーを手配してくれた。そしてカウンターの奥から鳴った電話に出ると、
「タクシー来ましたよ、 」
と微笑んだ。
「夏目さん1人じゃ青さん運べないでしょう?僕も手伝いますよ」
「いや、いいよそんな悪いし…なんとか運べ…」
駆け寄ってきてくれて双木君にそこまでさせられないと思い、手で制して青山さんの左腕を自分の肩に回して立ち上がろうとしたものの、その重さにとさり、と隣に座り込んでしまう。
「ね、手伝います」
いきますよ、せーの。その声に思わずまた力を込めて青山さんを2人で担ぐようにすると簡単にその体は動いた。とはいえ俺はいまアルコールも回っているしほとんど力が出ない状況であるから、ほとんどは双木くんの力だろう。涼しい顔をして倍以上の体つきの青山さんを持ち上げているが、どんだけ力あるんだよ。コイツ。
青山さんをタクシーへと放り投げ、双木くんへとお礼を言った。
「ありがとう、双木くん。やっぱり、俺1人じゃ無理だったから、助かったよ」
「いえ、これも仕事のうちですし、青さんは大事な常連さんですから」
軽く談笑をしながら、バーへと戻った。そして、終電も差し迫っていた為、会計を済ませ、俺は足早に駅へと向かった。双木君…青山さんの愚痴はすっぽりと頭から抜けていたが、彼の存在だけは俺の中に刻み込まれていた。
「hug me…」
帰宅して風呂などを済ませ、スマホを開くとたくさんの通知が来ていた。青山さんに無理やり登録させられたあのアプリだ。登録して2、3時間ほどしか経っていないのに、すでにLoveと書かれたハートマークが何通も送られて来ていた。あの人もあの人だ。自分があんな目に会っておきながら他人に勧めるなんて、どういう神経をしてるんだろう。
アヤ、梨花、みゆきち、りりにゃ、真弓。上から順にそのハートマークの相手を見て、スワイプで消す。一定のリズムでそれを繰り返すと最後は、リョウという子だった。おしゃれなカクテルの写真がなんとも女子らしい。
少し気になって、リョウのプロフィールを下までスクロールした。
自己紹介:美味しいもの、美味しいお酒、映画、音楽が好きです。気軽にLove送ってね。
性別:秘密
「秘密って、」
出会う気あんのかよ、と苦笑した。こんなやつもいるのか。大体、秘密にするメリットってなんだよ。
すぐに消そう、こんなアプリ。そもそも、こんな怪しいアプリで出会った女と恋に落ちることが出来る気はしないし、仕事が忙しい。
体だけの関係ならば、飲み屋で引っ掛けた女かプロの女で事足りるし、態々こんな七面倒臭い真似…。
まあ、最後に見たというのも何かの縁かもしれない。リョウにLoveを送り返し、そのままシャワーを浴びなければという気持ちのまま、俺はスマホを持ってソファへと沈んでしまった。
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