桜庭課長とわたし

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「え……」  桜庭課長の目がわずかに見開かれた。 「桜庭、おまえさあ、同期の子の顔と名前も覚えてないって失礼すぎない?そっちのほうが呆れる」    去年一緒に入社式を迎えた同期は6名だった。  そこに一緒にいたし、同期全員で食事したこともある。 「いえ、いいんです。わたし、この通りちっちゃくて地味で目立たないので、桜庭課長の視界に入ったことがないのでしょうね、ははっ」   桜庭課長がわたしの手からメモを取り上げた瞬間、指が少し触れてドキリとした。  メモに目を通した桜庭課長は、ふっと笑って漆黒の瞳でじっとわたしを見つめる。 「社員なら、こんなカンペなんて見ないで交渉できるようにならないとダメですよ。失礼なことを言ってしまったお詫びに納期短縮の件は承ります。次は手ぶらで交渉に来てね、田辺さん」  どうやら捨て身の奇襲攻撃が魔王様にクリティカルヒットしたらしい。  ふわふわとした感覚のまま営業部に戻り、納期短縮に成功したと告げると「おおっ!」というどよめきが起き、「勇者だ!」と称えられ、それ以来、桜庭課長への交渉はわたしの担当となってしまったのだった。   それからも何度も納期短縮のお願いに上がる機会があり、長谷川さんを頼らなくても自力で桜庭課長を見つけられるようになった。  エンジニアの人たちは服装が自由で大半の人はスーツを着ていないため、いつもきちっとスーツを着てネクタイを締めている彼は逆に探しやすい。  桜庭課長が常にスーツを着ているのは、急なメディア対応や商談が多いためだということも知った。    回りくどい前置きは不要で、単刀直入にはっきり要件を告げるほうが好まれることも学んだ。  それでもやっぱり彼のことは苦手だった。  
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