桜庭Side 

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 大学院修了後の進路として、ずっとフリーで活動するという選択肢もあったが、敢えて就職してみたのは「会社組織」や「業界の暗黙のルール」というものを勉強してみたかったからだ。  年功序列ではない実力主義の職場というのも魅力的で、大学の先輩だった杵淵(きねぶち)さんの会社に決めた。  独立ならいつでもできる。   というわけで、入社の翌年に課長職に就いた時にまず行ったのは、開発部門の納期短縮の依頼窓口は自分だけにして、極力断る方向にすることだった。  あの人は押しに弱いから…という理由でターゲットになってしまうエンジニアを守るためだ。  入社年次が2年先輩の長谷川英作も、この方針に大いに賛同してくれている。  納期管理はもちろん部内で共有し、自分が不在のときは長谷川さんをはじめ、対応できる社員を数名置いている。  口の達者な営業に一方的に押し切られない人選にした。  がしかし、そいつらに任せておくと、それでも甘いのだ。  特に女に対して。  それに気づいた営業のやつらは、俺が不在の隙を狙って新井静香を送ってくるようになった。  新井静香は「桜庭課長とわたしは同期じゃん!」と馴れ馴れしく言ってくる女性社員で、男たちともすぐ打ち解ける話術と見た目の良さで、これまでにも納期短縮交渉を成功させていたわけだが、そのやり方が気に入らなかった。  俺と正々堂々勝負するのを避けるのは卑怯すぎないか?    そのフラストレーションがたまっていた折、会議が予定よりも早く終わって開発フロアに戻ると、長谷川さんに向かって両手を合わせて頼み込むような仕草をしている新井の姿が目に入った。    早足で近づき、これまでの卑怯な手口へのクレームと、今回の短縮は何があろうと了承しかねることを冷たく言い放つと、新井は大きな目に涙をいっぱい溜めながら走り去っていった。 「あーあ、あそこまで言わなくてもよかったんじゃないの?」 「長谷川さんたちは甘いんです。だから舐められるんですよ」  新井静香は当分来ないだろう。  次は一体誰を送ってくるだろうか。  そして送り込まれてきたのが、田辺ひなただった。
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