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「それは出来ません」「命令違反になります」
それがその時僕が軍人として真っ先にいうべき言葉だったのでしょう。
なのに、僕はそのどちらも彼に発することができませんでした。
なぜなら、僕も知っているからです。
他人と比較されるとはどのようなことか。
他人のように期待されるのはどのようなことか。
お兄様から僕に与えられるもののように、時にはそれは心地の良いものもあります。
ですが、ヘンリー様の周りには苦しみを産むようなものしかなかったのでしょう。
「よく、…頑張りましたね」
きっと、彼は僕の存在を知っていたのでしょう。だからこそ、こうして最後に話してくれたのでしょう。
「よかったら少しだけ、南に付くまでの間だけ、セルベル様の弟の代わりとトール様の代わりじゃなくて、ただのノアとヘンリーとして話しませんか?」
その途端、ヘンリー様の前髪の隙間から大きな水滴が流れ落ち、水滴は地面の上で跳ねると散り散りに砕け散りました。
たったの一言や短い言葉であったとしても、そんなに変哲のあるように思えない言葉であったとしても、望んでいるものからすればその言葉はきっと神の救いよりも救済になる。
「僕」がお兄様から一番最初にならったことです。
だから、お兄様にはとても謝罪しても謝りきれないことかもしれないけれど…。
任務のため、ヘンリー様を守る今だけは、この時だけは僕は捨てたはずのノアに戻ることを決めました。
「僕ね…」
〜〜〜
本当に取り留めのない会話ばかりでした。
ですが、人に囲まれているようできっと常に孤独で、満たされない部分があった僕達にはそれが新鮮で輝いてい見えました。
そして、最初は跡切れ跡切れだった会話がいつしか弾み、途切れることなく続いていました。
「本当にノアは僕をただのヘンリーとして見てくれるんだね」
「僕もただのノアですから」
「…ひどいねノアは。ノアみたいに、僕を僕として見てくれる人がいたら僕はまだ生きたくなってしまうよ…南ではきっと王族っていう新しい姿も出来てさらに僕は僕じゃなくなってしまうだろうに…」
「なら僕が何度でも会いに行きます。南まで」
その言葉が終わらないうちに馬車が2度大きく揺れ、馬車の前方、後方から大きな怒声と戦音が響いてきました。
その中で、僕は悲鳴を上げて椅子から転び落ちるヘンリー様をぎりぎりの所で受け止め、2人一緒に床に叩きつけられてしまいました。
ヘンリー様の無事を確認してから窓の外を確認すると、頭上にあったはずの太陽が傾き始めていました。
そう、僕達は自国から南への輸送ルートの中でどうしても迂回できなかった危険箇所、国境沿いの森林までたどり着いていました。
それを確認すると僕は急いで椅子の中に仕込んだ剣を2本、抜き出しました。
敵の数は分からない、どこで戦っているかも分からない。でも、まだ馬車から逃げる合図はない。ならば僕がすることはただ一つ。
仲間の皆が敵を打ち払ってくれることを信じてここでヘンリー様を守る最後の砦になること。
「ヘンリー様…この剣を、そして…僕の後ろに」
「で、でも…」
気づくとヘンリー様は顔を真っ青にして震えていました。
先程まで話をした僕には分かりました。
戦えない、価値のないと思い込んでいるヘンリー様自身を生き延びさせるため誰かが犠牲になる。そのことが何よりも耐えられない優しい方だからでしょう。
それでも…
僕は、振り返りヘンリー様の肩を掴みました。
「お願いします、ヘンリー様。ヘンリー様はセルベル様たちに、僕に守られる価値のない方じゃありません。僕の友達なんですから」
「ごめん、ごめんなさい…ごめんなさい…僕には、もう、勇気が…」
やはり、ヘンリー様は自身を犠牲にして敵を引き換えさせようとしていたのでしょう。
長いようで短い沈黙の後、ヘンリー様は血が滲むほどに握りしめた拳で剣を受け取って下さいました。
「悪いのは僕です、ヘンリー様の勇気を折ってしまったのですから。…でも、そのかわりに、ヘンリー様は僕が絶対に守りきりますから…」
その言葉は僕の口から言い切られる前にヘンリー様の悲鳴と激しい剣撃の音にかき消されることになりました。
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