3.男がふと微笑むとき

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 バターの香り、ワインの香りの煙が立ちのぼり、慌ただしく調理人たちが行き来している厨房。  白いコックコート姿の父へと葉子はそっと近づいて告げる。 「予約なしのお客様です。追加をお願いします」  滅多にないことだったので、一瞬だけ厨房の喧噪が止んだ気がするほど、料理人達が一気にこちらへと視線を向けた。  特に父の目つきが怖い。これから、予定外の調理を組み込んでいかねばならないからなのだろう。ただし、いきなりの飛び込みが入ることも毎晩予測して準備しているのも、想定内。プロはそこもこなせなくてはならないのだ。 「どのようなお客様だ」  どうして受け入れたか――という意味でもあった。葉子も躊躇わずに告げる。 「矢嶋シャンテで、桐生給仕長の前にメートル・ドテルを務めていた方、甲斐様です。なので篠田給仕長が受け入れました。九州の大分からお一人で来られたようです。北星秀の写真集をお持ちでした」  また調理場にいる者たちの手元が一瞬だけ止まった気がした。特に父は完全に止まっていた。 「わかった。篠田によろしく伝えてくれ」 「はい。シェフ」  厨房に背を向け、葉子はホールへと急ごうとしたのだが。 「待て、葉子」  今度はアミューズを盛り付ける手元を動かしながら、父に呼び止められる。 「そのお客様に、あとでお会いできるか。篠田に伝えてくれ」 「わかりました。伝えておきます」 「秀星の師匠ってことか」
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