明日晴れなくても(5)

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五・憂鬱な夏休み  素子からのショートメールが届いたのは、夏休みに入って三日目の朝だった。 「今日は決勝戦! みんなで応援に行くよ~!」  我が校野球部は準決勝も四ツ倉自身の決勝打を全員で守り切り、とうとう決勝戦までコマを進めていた。  蒸し風呂のような部屋で全身に大汗をかきながら寝ていた私が目を覚ましたのは昼前だった。  私のスマホの待ち受け画面は、スパムメールかと見紛うほどのおびただしい数のメールと着信履歴で埋め尽くされていた。  今からシャワーを浴びて、着替えて髪をセットして、少ない小遣いから往復の電車賃を出してまで球場に向かう気にはなれなかった。 「ごめん。今起きた。無理。自宅から応援してます」とメールを返してから灼熱地獄の部屋を出た。  浴室でびっしょりと濡れたシャツを脱ぎながら、よく熱中症にならなかったものだと自分自身に感心した。  シャワーで汗を流してようやくサッパリした私は、冷蔵庫でよく冷えたミネラルウォーターをゴクゴクと喉を鳴らして飲んだ。  干からびた全身の細胞一つ一つに水分が行き渡るのを実感すると、さらに涼を求めて冷房の効いたリビングに入った。 「あら、ゆかり。あなたいたの」  指定席のソファーで昼のワイドショーを見ていたお母さんが私に気付いて声をかけた。 「ちょうどいいわ。これから買い物に行くんだけど、あなたも一緒に来てくれる? 荷物持ちが必要なの」  断る理由のない私は言うとおりにお母さんの買い物に付き合うことにした。  マンションの駐車場からお母さんが運転する車が出て来ると、私は躊躇なく助手席に座った。私がシートベルトを締めようとした矢先、ブォン、とエンジンを吹かす音と同時に車が発進し、慣性の法則に従って私の身体は背もたれの方に持って行かれた、と思ったら今度は急ブレーキで前につんのめった。 「危ない。ニャンコが飛び出してきたわ」  お母さんの運転はいつもハラハラドキドキさせられる。スピード狂というわけではないが、急発進急ブレーキはしょっちゅうで、右折左折であまり減速しないし、狭い道で対向車とすれ違うときにもあまり避けようとはしない。信号が青から赤に変わるギリギリのところでは必ずと言って良いほど強引に交差点に入る。気になる景色が目に入るとついよそ見をしてしまうこともままある。  急発進と急停車で身体を前後に揺さぶられて、遊園地のアトラクションみたいなスリルを味わいながらも恐怖心を抱かないのは感覚が麻痺しているせいもあるが、お母さんは絶対に事故を起こさないという根拠のない確信があるからだと思う。それを裏付ける証拠に、お母さんは免許を取ってからずっと無事故無違反を更新中のゴールドドライバーだ。これはもはや奇跡と言っても過言ではない。 「相手の方が運転上手だから、向こうからよけてくれるのよね」  とお気楽に話すお母さんの運転は正直危なっかしい。美樹は絶対にお母さんの運転する車には乗ろうとはしない。  私がまだ小学生だった頃、家族でドライブ旅行をした帰りに高速道路で大渋滞にはまってしまったことがあった。  高速道路とは名ばかりでただの長細い駐車場なのではと思うくらい全く車が動かない状態がしばらく続いていた。  お父さんの疲労を和らげるためにお母さんが運転を代わろうと、停車中の路上で運転席と助手席のドアを同時に開けた途端、後部座席にいた美樹が突然怒り出した。 「運転が未熟なお母さんが高速道路を運転するなんてあり得ないわ!」  その頃お母さんはまだ運転免許を取ったばかりで、普段もほとんど運転していないペーパードライバーだった。  渋滞でスピードが出せないから大丈夫と、お父さんとお母さんがいくら説明しても彼女は納得せず、結局二キロ先のサービスエリアまで運転するだけという条件で運転することを許された。  お母さんがノロノロと車を走らせているときでも彼女はしきりに「怖い怖い」と訴え、少しでもブレーキが遅れると「お母さん、ブレーキ!」と大声を上げた。  その時の美樹の慌てっぷりと、それとは全く正反対にマイペースでハンドルを握るお母さんの対比がその時の私には愉快だった。  助手席のお父さんと目を合わせながらお互いに苦笑いを浮かべていたのを今でもよく覚えている。  私がそんな思い出に浸っているうちに車は飲み込まれるように大きなタワーパーキングの中へと入っていった。  最近郊外にできた大型ショッピングモールは県内最大規模という謳い文句で近県からも大勢の買い物客が連日訪れるほどの人気スポットとなっていた。  大小合わせて三百近い店舗は衣食住に必要な商品のほとんどを取り揃え、更にゲームセンターやフットサルなどのスポーツ施設も併設し、とても一日では全て回りきれないほどだ。 「ところで、何を買いに来たの?」  お母さんが車で遠出してまでこんな大きなショッピングモールに来たのは、ここでしか売っていないような代物を買いに来たのだと思った。 「そうねぇ。美樹がおでこに貼る冷却シートを買ってきてって言ってたから、それは必須なんだけど……」  冷却シートなら近所のドラッグストアで済む話だ。不精者の私でも歩いて行ける。 「ま、それは口実で、とにかくここに来てみたかったのよ。だって面白そうじゃない」  そう言ってお母さんは広い通路の左右に立ち並ぶお店を覗きながら、興味を惹いた品物を見つけては店内をブラブラと歩き回った。 「これで美樹の冷却シート買ってきて。お釣りであなたも好きな物買って良いわよ」  そう言ってお母さんから千円札を手渡された。  冷却シートを買ったら、残ったお金で何が買えるのか。その前に薬局ってどこにあるのだろうか? 「どっかにインフォメーションコーナーみたいのがあるから、そこで調べたら?」  お母さんは雑貨店の棚に飾られた用途のよくわからないガラス製品を手に取って眺めていた。 「適当にぶらぶらしてるから、帰りたくなったら携帯に電話してちょうだい」  お母さんが早々に帰るつもりではないらしいとわかり、私も他のお店を見て回ることにした。所持金がないので大した物は買えないが、いろいろなものが見られるのと、何よりも店内で涼が取れるのはありがたかった。あまりの暑さで陽炎が立ち上りそうな自分の部屋と比べたら雲泥の差だ。  冷やかしのつもりで入った高級ブランド店で店員に勧められた洋服の値札を見て愕然としたり、ちょっとお洒落な海外輸入雑貨に目を奪われたり、寝具店で高級ベッドと羽毛枕の寝心地の良さに本気で熟睡しそうになったりと、何だかんだ言いながら私自身もショッピングを満喫していた。  お母さんと別れてからあっという間に一時間以上経っていたことに気付き、慌ててスマホの画面を開いたところ、素子からの着信履歴で画面が埋め尽くされていた。 「やったーーーーーっ!」 「甲子園だーーーーーー!」 「祝!優勝!!」 「みんなよくやった!」 「感動!!」  我が母校がついに県大会を制し、学校創立以来初めて甲子園へ出場することが決まったようだ。  SNSには試合後スタンド前に整列した選手達が米粒ほどの大きさで写っている写真やVサインしている自撮り写真や、紀子やミエ達と一緒に喜びを分かち合っている動画などが惜しげもなく続々とアップされていた。  それらに愛依と舞依の姿が映っていなかったのが少し気になった。私と一緒で都合が悪くて応援に行かなかったのだろうか。それとも素子達とは別の場所で応援していたのだろうか。  ドラッグストアに入った私は冷却シートのコーナーにある一番安い商品を手に取ると、さっさとレジに向かった。  お釣りで何を買おうかと思いを巡らせながらレジに並んでいると、よろよろと一人の若い女性がお店に入ってきた。  その女性はうなだれていて髪で顔がよく見えなかったが、舞依によく似ていた。  私は気になって彼女を目で追いかけた。彼女は頭を押さえながら頭痛薬のコーナーで何かを探しているみたいだった。  商品棚から見え隠れする彼女が舞依だと確信した私はレジの列から外れた。 「舞依ちゃん?」  顔を上げた舞衣は私と目が合うと目を見開いて驚き、明らかに動揺の色を浮かべていた。  彼女に近付こうとすると彼女は私に背を向け、逃げるようにその場を立ち去った。  彼女がいた場所から、ポトリ、と頭痛薬の箱が棚から落ちた。私が箱を拾い上げ棚に戻したときには舞依はもう店の外に出て行くところだった。  急いで買い物を済ませ、店を出て辺りを見回した。が、すでに舞依の姿はどこにも見当たらなかった。 「白岡さん?」  私の背後から、周囲のざわめきに混じって囁き声のようなか細い声が微かに聞こえた。  振り向くとそこには愛依が立っていた。 「舞依見なかった?」  愛依が心配そうな顔をして尋ねた。 「一緒に買い物してたんだけど、急に何も言わずにどっかに行っちゃったの」  今にも泣き出しそうな顔の彼女を見ながら、愛依の方が妹みたいだなと思っていた。 「さっきドラッグストアで見かけたわよ。私が声掛けたらすぐに出て行っちゃったけど」  私は背後にあるお店を指差した。 「そう。ありがとう」 「私も一緒に捜そうか」  舞依の苦痛に歪んだ顔が脳裏に浮かんだ。 「でも悪いわ。買い物の途中なんでしょ?」 「ううん、私は大丈夫。それよりも舞依ちゃんの様子がちょっと変だったから気になるの」  私は人混みの中で舞依の姿を捜すことにした。捜すと言っても、ただ闇雲に捜し回るのではない。このシチュエーションこそまさに超能力を使うときだ。  舞衣の意識を感じ取ろうと、目を閉じ神経を集中させた。彼女の足音、息遣い、心拍音、とにかく全身をセンサーにして彼女の気配を探ろうとした。  そんなことは今までやったことがなかった。だから超能力でそんなことができるのかどうかは全くわからないし自信もなかったが、こんなだだっ広くて人の多い店内で舞依一人を捜すなんてことはほぼ不可能に近い。いくら目を凝らそうが、いくら駆けずり回ろうが絶対に見つからない。ならば、ダメ元で超能力に賭けてみても良いんじゃないかと思ったからこその行動だった。  周囲の雑音が次第に消えていき、行き交う人達の気配が徐々に消えていった。そして完全に全てのノイズがかき消され静寂に包まれると、そっと床に手を置いた。  すると、かすかに彼女の呼吸音が聞こえた。場所を特定するために私は更に集中した。  彼女がいるのは……。 「こっちだと思う」  そう言うが早いか、私の足は彼女の息遣いが微かに聞こえた方向に向かって歩き出していた。  愛依も黙って私の後を付いてきた。  人混みを抜け、自分が感じた方向へと進んでいった。わずかではあるが彼女の気配が強くなった。  長い通路の途中にある「化粧室」と書かれたプレートが貼られた一角を曲がり、女性用のトイレに入ろうとすると、奥から女性の悲鳴が聞こえた。  私達がトイレに駆け込むと、洗面台のところで倒れている舞依と必死に彼女に声をかける三十代くらいの女性の姿があった。  愛依は意識のない舞衣を抱き起こし、その場に座り込んで自分の膝の上に彼女の頭を乗せた。 「あなた、お友達?」  女性が愛依に話しかけた。 「私の妹なんです」 「病院に連絡するわね。行きつけの病院とかあるの?」 「病院は呼ばなくても大丈夫です」  洗面台の上にはさっきドラッグストアで見たのと同じ頭痛薬の箱が手荒に開けられいて、中の薬が中途半端に取り出された状態になっていた。  愛依は薬を手に取り、自分のバッグから取りだしたミネラルウォーターと一緒に口に含んだ。そして舞衣の頬に手を当て、口移しでその薬を飲ませた。  その無駄のない、流れるような彼女の所作を女性と私はただ黙って見ていた。 「すいません、驚かせてしまって」  愛依は座ったまま、側にいた女性に頭を下げた。 「本当に? 念のため病院に連れて行った方がいいんじゃない?」 「妹はときどき酷い頭痛でこうなることがあるんです。今薬を飲んだので、もう大丈夫だと思います」  微笑みを返す愛依に女性は口をつぐんだ。  舞衣に向かってテレパシーで声をかけてみた。が、彼女からの反応はなかった。 「白岡さん」  愛依が私に声をかけた。その表情はいつも学校で見ているときと同じように柔和だった。 「今はショックで気を失っているだけだから、もう少ししたら目を覚ますと思う」  舞衣が目を開けるまで二人を見守っていようと思っていたところへ私のスマホの呼び出し音が鳴った。 「もしもし。あなた、どこにいるのよ」  お母さんからだった。 「今、トイレ」 「そろそろ帰るけど、買い物は済んだの?」 「うん。お母さん、どこにいるの?」 「二階のフードコートよ。早く来ないとたこ焼き全部食べちゃうからね」  わかった、と短く答えてから電話を切った。愛依に膝枕されたままの舞依はまだぐったりとしていた。 「白岡さん。私達は大丈夫だから、自分のお買い物続けて」 「でも……」 「本当に大丈夫だから。ありがとう、舞依ちゃんを捜してくれて」  私はじりじりと後ずさりをしながら、後ろ髪を引かれる思いでその場を離れた。  やっぱり舞依が意識を取り戻すまでそばにいてあげた方が良かったのではないかという気持ちと、目を覚ましたときに私がいたら気まずいかも知れないからその場にいない方が良いのかもしれないという両方の気持ちがずっと私の中で交錯していた。  気もそぞろで食べたぬるいたこ焼きはなんとも味気なく、二個ほど食べて後はお母さんにあげてしまった。  その日の夜、舞依からSNSでメッセージが届いた。 「こんばんは愛依です。舞依のスマートフォンから送ってます。舞依は元気になりました」  メッセージの送り主が舞依ではなかったことに少しがっかりしながらも、舞依の容体が回復したことを知って少し安心した。 「元気になって良かった」  私はすぐに返信した。すると、また愛依からメッセージが届いた。 「本当は舞依から連絡するように言ったんだけど、いいって言うので代わりに送ってます」  まだ舞依は私のことを怒っているのか。それともただ意固地になっているだけのか。愛依からのメッセージだけでは彼女の本心を酌み取ることはできなかった。 「愛依ちゃん」  私は意を決してメッセージを送った。 「どうしたら舞依と仲直りできるかな?」  向こうからの返事がしばらく途絶えた。私はスマホの画面を食い入るように見つめた。こういうときの一分、二分は途方もなく長く感じてしまう。  やがて彼女から返信が届いた。 「ごめんなさい。二人がケンカしてたなんて知らなかったから、ちょっとびっくりしちゃった」  そしてメッセージが続けて届いた。 「でも、大丈夫だと思います」  愛依は何をもって大丈夫だと言っているのか、私には全くもってわからなかった。何の根拠もなくただ私を落ち込ませないために取り敢えずそう返事しただけなのだろうか。  私の中のモヤモヤは一向に晴れずにいた。 (つづく)
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