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六・夏休みは終わらない
我が校野球部が甲子園初出場を決めてから二日後、学校内にある大会議室にて臨時の保護者会が開かれた。
保護者も学校も初めて経験することばかりのため、お互いにハテナマークを頭の上に浮かべながら手探り状態で話し合いは進んでいった。
選手の移動はバスなのか新幹線なのか、宿舎はどうやって確保するのか、応援団を編成するにあたり吹奏学部の連中が揃うのか、どんな楽曲を演奏するのか、応援団の移動はまとまって行くのか個人で行くのか、そもそも宿泊費や移動費などをどうやって工面するのか、など様々な課題が噴出し、その度に会議の進行が止まった。
校長や教頭らが腕組みをして思案に暮れるシーンが相次ぐ中で、その場に出席していた素子の父から、
「選手達の奮闘に大変感激した。甲子園にかかる経費については宝積寺グループが全額負担したい」
と名乗り出て、学校関係者を仰天させた。
現地の宿舎から移動用のバスの手配についても宝積寺グループが全面的に協力してくれることになった。
急転直下で事態が打開されると、その後はトントン拍子に進んでいった。
素子の父が後援会長に就任し、素子も生徒達とのパイプライン役として「スーパーアドバイザー」という偉いのか偉くないのかよくわからない役に抜擢された。
気が付けばいつからか市役所には「祝 甲子園出場!」の大きな垂れ幕が下がり、いつしか地元住民の話題は甲子園一色となった。
地元住民からバスツアーの申し込みが殺到し、バスの数は当初予定していた十台から十五台に上方修正された。
しかも、注目の一回戦の対戦相手が奇しくも四ツ倉が一年の時に在学して全国優勝を果たした大阪の強豪校と決まり、スポーツ紙などは『因縁の対決』だとか『史上最大の下剋上』などという謳い文句で紙面を盛り上げ、テレビも各局で両校の対戦カードをしきりに取り上げて話題にしていた。
かくして、希望と期待に胸膨らませた生徒、保護者、教員、地元私設応援団ら老若男女を乗せたバスは地元を深夜に出発し、甲子園球場には早朝未明に到着した。
長旅の疲れも見せることなく意気揚々と球場に乗り込んだ応援団一行はたちまちアルプススタンドを埋め尽くし、試合が始まる前からテンションは最高潮に達していた。
甲子園球場などというメジャーな舞台で演奏などしたことのないであろうブラスバンド部員は他の誰よりも緊張した顔で楽器を握りしめながら本番前の準備に余念がなかった。
甲子園へ行く前に舞依にも「甲子園に行くの?」とメッセージを送ってみたが、彼女から返事は来なかった。
ひょっとするとこのスタンドのどこかにいるのかもしれないと淡い期待を抱きつつ周囲を見渡してみたが、この大人数の中で舞依と愛依の姿を見つけることはほぼ不可能だった。
少しだけ心残りの中、両手にメガホンを握りしめ、流れる汗を拭いながらグラウンドへ熱い声援を送った。もちろん紀子も素子もミエもすぐそばで一緒に応援していた。
試合は緊迫した投手戦を繰り広げ、エース四ツ倉が優勝候補の相手打線を封じ込めば、相手投手も好投し味方打線はなかなか打ち崩すことができなかった。
テンポ良く進んだ投手戦は0対0のまま延長戦に入り、延長十二回でも決着が付かず、とうとうタイブレークが採用される延長十三回に突入した。
「こうなると点を取った方が勝ちみたいな展開だね」
と、素子が野球解説者のような口調で語った直後、ノーアウト一、二塁から四ツ倉がこの日三本目のヒットをライトへ放ち、ついにその均衡が破れた。
スタンドは地鳴りのような歓声に包まれ、誰彼構わず抱き合って喜びを分かち合った。
「いよいよあとアウト三つで勝利だね!」
素子がピョンピョンと何度もジャンプしながら、
「おしっこ行きたいけど、我慢するぅ~!」
と言って、メガホンを力一杯叩いていた。
「ひょっとしたら、勝っちゃうのかなぁ~」
紀子がメガホンを叩きながら言った。
「勝っちゃうんじゃなくって、勝つんだよっ!」
さっきからずっと小躍りしたままの素子に私はグラウンドの試合よりも目の前の彼女が膀胱炎になりはしないかと、そっちの方が気になって仕方がなかった。
一点リードの十三回裏でも四ツ倉の球威は衰えることなく七番バッター、八番バッターと続けて三振を奪い、とうとうツーアウトまでこぎ着けた。
ツーアウト一、二塁の場面で九番打者に代打が送られ、背番号14を付けたバッターが打席に入った。
一球目はアウトコースのスライダーで空振り、二球目は膝元へ糸を引くようなストレートが決まって、あっという間にバッターを追い込んだ。
声援はひときわ大きくなり、スタンドでは「あと一球」コールが鳴り響いた。
レフトスタンドの応援団全員がマウンド上の四ツ倉の背中に向けて熱い視線と声援を送っていた。
「もう惚れちゃいそう~!」
と叫ぶ素子の言葉を「漏れちゃいそう~」と聞き間違えた私が、
「早くトイレに行った方がいい」
と進言した直後に、キンという金属音がして球場全体がワーッと大きく沸いた。
四ツ倉の投げた三球目をバッターがフルスイングするも打球はサード前のボテボテのゴロとなった。普通に捕って普通にファーストに投げれば余裕でアウトだ。
向かい側のライトスタンドからは大きな溜息が漏れた。私達は甲子園初勝利を確信した。これでゲームセットだと球場にいた誰もが思ったはずだった。
ところが、サードからの送球は大きく逸れ、ファーストが懸命にジャンプするも届かず、ボールは外野方向へ転がった。
ボールが転々としている間に二塁ランナーが生還し、ライトがボールに追いついて中継の内野手に返球したときにはすでに二人目のランナーが砂煙を巻き上げながらヘッドスライディングでホームに滑り込んでいた。
サヨナラ負けだった。
ライトスタンドは割れんばかりの大歓声と拍手に包まれ、レフトスタンドはお通夜のようにしんと静まり返った。
相手校の校歌が流れると、あちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。女子生徒はもとより男子生徒も人目をはばからずに号泣していた。
素子はへなへなとその場にへたり込み、ガックリと肩を落としながら呆然としていた。
やがて校歌が鳴り止み、選手達が重い足取りでスタンドの前に整列した。
「素子、ほら立って。選手達が来たよ」
紀子が素子を抱き起こした。まるで糸の切れたマリオネットのようにダラーンとした彼女の全身からは生気が抜けていた。
素子の足許にできたシミを見て、恐らくお漏らしをしてしまったのかもしれないと思いながらも、ここは彼女の名誉のために敢えて汗なんだと察してあげることにした。
監督、マネージャーを含めた全員が泣きながら応援席に頭を下げる中、四ツ倉だけは最後まで微笑みを絶やさず清々しい表情だったのがとても印象的だった。
甲子園からの帰り道、高速道路のパーキングで休憩する度に素子はヤケ食いとばかりに、ソフトクリームやら揚げ物やらご当地グルメとやらをこれでもかと言わんばかりに食べ漁った。
フードファイター並みに食べまくる素子を見ているだけで私達は胸焼けを起こしそうになった。
もともと高校野球に興味のない私はその後どうなったのかも知らなかったが、私達に勝った大阪の高校が大会を制し二年振りに優勝したというのを新聞やテレビなどで後から知った。
球場の売店で売っていた小さなボトルに入った甲子園の砂のお土産を『あみん』のマスターと藤井へ渡したところ、二人とも痛く感激していた。
高校野球も終わって、空に浮かぶ入道雲がうろこ雲へと変わり、昼間あれほどやかましかったセミに代わって夜の虫たちが元気に鳴き出すようになった八月の終わりに、紀子から召集がかかった。
「お願い。人助けだと思って来てくれるかな」
それは紀子のバイト先へお客として来て欲しいという呼びかけだった。
夏休みの間は学生や観光客などで集客が伸びるのだが、八月の後半になるとその反動から客足がパッタリと途絶えるのだそうだ。そこで店長が売上を伸ばそうと、女性客には無条件で料金を二割引きするキャンペーンを始めると言い出した。
女性客が増えればそれにつられて自然と男性客も増えるだろうという無粋なアイデアには賛同しかねるが、紀子からのお願いとあれば行かないわけにはいかない。私と素子とミエは揃って彼女のお店に行くことにした。
まだ昼間は残暑厳しい八月の最終週、アキバの駅を降りた私は軽いデジャヴに襲われた。
「去年、ノリちゃんの尾行をしたとき以来ね」
正確には、お店の特典でお客と紀子がアキバで疑似デートをしたときに彼女が男に襲われないように二人の後を尾行したとき以来、と言うべきか。
しかも私はその後で時間遡行し、再度アキバを訪れている。アキバでの二度の出来事は決して良かったとは言い難かったが、そのおかげで紀子の超能力が開花したのだと思えば悪い事ばかりではなかったのかもしれない。
「もうお店の場所なんて忘れちゃったなぁ」
ミエがスマホをいじりながら紀子のバイト先を地図検索し始めた。その横で素子はビルにデカデカと貼られたアニメの巨大ポスターに向かってパシャパシャと嬉しそうにスマホで写真を撮っている。その光景に私はまた言い知れぬ既視感を覚えた。
私達がキョロキョロと周囲を見渡しながら歩いている前方でこれまた私達と同じようにキョロキョロしながら歩く二人組を見つけた。
「あ、アイちゃんとマイちゃんだ~」
素子がピョンピョンとスキップしながら前の二人に向かって駆け出した。そしてお約束のように二人の背中に向かって「ワッ!」と言って脅かすと、これまたお約束のように二人は「ヒャッ!」っと驚いた。
「ハーイ! ミーちゃんですよ!」
「なんだ、宝積寺さんかぁ」
「違うよ。ミーちゃんだよ!」
相手が素子だとわかってホッとする愛依と舞依の顔を見て、ショッピングモールでの出来事を思い出した。
愛依は私と目が合うと嬉しそうに顔をほころばせた。
舞依も一瞬私の方を見たが、すぐに顔をそむけてしまった。
「二人も紀子ちゃんのところに行くの?」
「うん。蓮田さんから来てってメールがあったから」
「偶然だね! 私達もだよ!」
「よかった。アキバって来たことなかったから、お店までどう行っていいのか全然わからなくって」
「オッケー任せて! ミエちゃんが案内してくれるからね!」
「ま、私と言うよりもこの地図アプリが案内するんだけどね」
ミエがスマホの画面とにらめっこをしながら先導し、私達はその後をダラダラと付いていった。お店に着くまでずっと素子は私達にアキバの街並みをガイドしてくれた。
「この店はBL系のグッズが豊富で、あっちのお店は円盤ものが充実してるよ!」
「フィギュアを買うんだったらあのお店が安いけど、レアものが欲しかったらもう一本裏通りにあるお店に行った方がいいよ!」
「モバイルバッテリーとかスマホケースは駅前のお店よりももっと奥まったところの方がいいお店がたくさんあるよ!」
いつから素子はアキバに詳しくなったのか? 私達に内緒で連日アキバを探索しているんじゃないだろうか?
「あれからネットでずっとアキバのショップを検索してたらいつの間にか詳しくなっちゃったんだ」
「それなら紀子のお店もすぐにわかるでしょ」
ミエのわかりやすいツッコミに私も同調してうなずいた。
「あー。メイドカフェはあんまり検索してないんだ」
「ハハハ。そうなんだ」
つれない素子の言葉にミエは乾いた笑いを返すしかなかった。
私は前を歩く舞依の背中に向かってテレパシーで話しかけようとして、やめた。話しかけたい気持ちもあるが、また舞依から無視されてしまうのが怖くてためらった。
「ここね。間違いないわ」
ミエが雑居ビルの入り口に置いてあるブラックボードを指差した。
黒板調のボードに色とりどりのチョークで手書きされた看板と、見上げたビルの窓から見える『フェアリーテール』という文字になぜか懐かしい気持ちになった。
ちょっと古びた狭い階段を一列になって上がっていき、壁の色と全然違うパステルカラーの扉を開けるとチリンチリンと可愛い鈴の音がした。そして外観からは想像もできないほど明るくてカラフルな店内が私達の目に飛び込んできた。
フロアにいたメイド服の女の子達が一斉にこちらを向いた。
「お帰りなさいませ~、お嬢様方~!」
私を含め、ほぼ全員が呆気にとられていた。唯一素子だけが「キャハッ♡」と大喜びで小躍りしていた。
私達に気付いた紀子がツインテールをなびかせながらフロアの奥からスタスタと私達の方へやって来た。
「ありがとう。よく来てくれたわね」
間近で見る紀子のメイド服姿は、やっぱり可愛かった。特典デートで紀子を指名したオタク野郎が彼女に惚れ込んだ訳に納得した。
「クミちゃんのお友達?」
近くにいた別のメイドさんが声をかけた。
紀子の胸許には手書きで『クミ』と書かれた可愛らしいネームプレートが付いていた。
後で知ったことだが、こういうお店でバイトしている女の子は本名を使うことはなく、全員違う名前で呼ばれていた。
「みんな可愛いわね。どうぞゆっくりしていって下さいね!」
身体をくねくねさせながら私達に愛想を振りまく彼女のネームプレートには手書きの可愛い丸文字で『みゅう』と書いてあった。名前の横には猫の肉球イラストが描かれていた。
「閑古鳥が鳴いてるって聞いたのに、結構お客さん入ってるじゃないの」
ミエが店内を見渡しながら言った。
「さっきまでは暇だったのよ。さ、空いてる所に適当に座って」
ほとんどの席が埋まっていて、四人用の席と二人用の席が離れて空いているだけだった。
「じゃあ、三人と二人に別れようか」
「あ、僕達席替わりましょうか」
と言って、四人用の席の隣にいた二人組の男性が腰を浮かせた。
「どうもありがとうございます~」
素子がニコッと笑ってお礼を言うと、二人は照れくさそうに笑みを返しながら自分達のドリンクを手に席を離れた。
みんなはそれぞれ席に着き、私と舞依は一番遠い対角に座った。
一つしかないメニューを順番に回してから、それぞれオーダーした。みんながドリンクしか注文しなかったのに対し、素子だけはドリンクの他にベリーベリーパンケーキとスペシャルオムライスまで注文していた。
「もう少ししたら『占いコーナー』が始まるから、みんなも占ってあげるわね」
紀子はオーダーを取り終えるとフロアの奥へと消えていった。
「なんかワクワクするね!」
素子は物珍しそうに店内をぐるりと見渡した。
外見は古びて殺風景な雑居ビルだというのに、それを全く感じさせないほど綺麗な店内に私達は感心しきりだった。
どのメイドもペチコートでフワフワするスカートと白いニーハイの間から健康そうな太腿が覗いていて、とてもキュートだ。
ドリンクが来るまでの間、フロアを行き交うメイドさん達をぼんやりと眺めていた。と言うか、半分見とれていた。
オーダーを取ったり、食事を運んだり、時には男性客と楽しそうに話したりしている彼女たちを見て、純粋に可愛いと思った。だからと言って自分自身がああいった格好がしてみたいかと言えば、答えはノーだ。そもそも私にはあんな服装は似合わないに違いない。
「いいなぁ~。私もメイド服着てみたいなぁ~!」
素子が羨望の眼差しで彼女たちを見た。天真爛漫でそこそこ可愛くて社交性のある彼女ならばきっと人気者になれるだろう。
「お店で働こうとは思わないけど、家とかでこっそり着てみてもいいかなぁ」
落ち着きがあって、それでいてときどき天然ボケするミエもそれはそれで魅力的だろう。
「アイちゃんは背がちっちゃいから妹キャラでイケルかもね!」
「えっ、私?」
「うん。お店でお客さんに『おかえり、お兄ちゃん』とか『ねぇ、今日も一緒に遊んでねっ』なんてやったらきっと人気者になること間違いなし!」
「そ、そうかな……」
愛依が引きつった笑顔で応えた。彼女の表情には明らかに困惑の色が浮かんでいた。
「ねっ? アイちゃんなら似合うよね?」
素子が舞依に同意を求めたが、彼女は黙って首を傾げた。
「愛依は人前だと緊張しいだから、こういう仕事は向かないと思うけど……」
「マイちゃんはクールな感じだからツンデレ属性のハートを鷲掴みしそうだよね!」
「えーっ、何それ?」
「ゆかりちゃんも素材は悪くないんだから、ちゃんとメイクして髪の毛セットして、フリフリのメイド服着れば絶対可愛いよ!」
素子の突然の振りに、私は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。彼女の言葉を直訳すると、私は普段は全然化粧っ気がなくて不細工だってことか。ま、悔しいけどその通りだから仕方ない。
「なんだか、ちっとも褒められてる気がしないんだけど」
私は腕組みをして素子を睨んだ。それを見てミエと愛依が笑った。
舞依は表情を変えずにお冷やに口を付けていた。
「お姉様方、おまちどおさま~」
紀子がドリンクを運んできた。
「素子、オムライスは先に持って来ちゃってもいい?」
「はーい、いいですわよ~」
「オムライスに何て書いて欲しい? メッセージでも絵でもいいわ」
素子は二秒だけ考えてから、
「『アイラブ素子ちゃん』って書いて!」
とリクエストした。
「わかったわ、素子ちゃん。楽しみに待っててね」
お店にいるときの紀子はバイトモードのせいかどことなく普段と口調が違っていた。これもプロ意識って奴なんだろうか。
ほどなくオムライスを載せたトレイを手に紀子が再び現れた。そのオムライスを見て素子は手を叩いて喜んだ。
オムライスには『I♡素子』と書いてあった。そしていかにも後付けしましたと言わんばかりに『chan』の文字が白い皿の部分に付け足すように書かれていた。
「『chan』が書き切れなくてお皿に書いちゃった」
「いーよ! 全然いーよ!」
「それと、『素』が画数多くってちょっとグチャってなっちゃったかも」
確かに『素』の部分だけゴチャゴチャしていて、言われなければ読めないレベルだった。
「いつもはもっと上手に書けるんだけどなぁ」
「全然大丈夫、ちゃんと『素子』って読めてるよ!」
素子が嬉しそうにスマホを縦にしたり横にしたりしてオムライスをカメラに収めていた。
「食べるのがもったいないよ~」
と言いながらも躊躇することなくオムライスにスプーンを突き刺してガツガツと頬張った。そしてあっという間にオムライスを完食すると間もなくベリーベリーパンケーキが素子の前に現れた。
二段のパンケーキの上にホイップクリームがそびえ立ち、その回りをストロベリーとブルーベリーの二種類のソースが彩りを添えていた。
「これはもうベリーベリーグッドや~」
口の周りにクリームを付けながら素子が満足げに言った。これが食レポ番組だったら完全に0点だろうが、おいしそうににパンケーキをパクパクと食べている姿はつい見とれてしまうくらい見事だった。
「いい食べっぷりね。惚れ惚れするわ」
ダイエット中のミエが羨ましいと言った顔で素子を見た。ダイエットなどしなくても十分痩せていると思うのだが。
「あっちのハニートーストもおいしそうだったなぁ~」
素子の視線はさっき席を譲ってくれた男性達の席に注がれていた。
そこには食パン一斤を半分に切ってトーストしたパンの上にアイスや生クリームやフルーツがふんだんにデコレーションされたカロリー高めの食べ物が置かれていた。
素子の熱い視線を感じたのか、ハニートースト・デラックスにナイフを入れようとした手がはたと止まり、周囲をキョロキョロと見回した。
「今度来たときはあれ食べよっと」
見てるだけでお腹がいっぱいになった私はチビチビとストローでグレープフルーツジュースを飲み込んだ。
「はーい、みなさーんお待ちかね『クミちゃんの占いコーナー』が始まりますよぉ」
メイドさんの声がマイクを通して店内に響き渡った。
「え? クミちゃんって誰?」
素子がキョトンとした顔で辺りを見た。
店の奥にあるフロアから一段高くなっているステージに紀子が現れた。
「あ、紀子ちゃんだ!」
「それでは、クミちゃんに占って欲しいご主人様、お嬢様方は一列に並んでくださーい!」
店内の客が一斉に立ち上がり、ステージ前にはたちまち長い行列ができた。周囲の殺気だった勢いに圧倒されて後塵を拝した私達は仕方なく最後尾から順番を待つこととなった。
「順番を待っている間、相談したい事を頭の中に思い浮かべておいてください。悩み事が多い人は、これだって言うのを一つだけ強く念じて下さいね~」
進行役のメイドさんが愛想を振りまきながら列に向かって声をかけた。
行列の中にあの疑似デートの時のオタク野郎を見つけた。彼は紀子の出勤日にはほぼ毎日顔を出して毎回何かしら占ってもらっているのだろうから、いいかげんネタも尽きているんじゃないだろうか。
一人目の相談者がやや緊張気味に右手を紀子の前に差し出すと、紀子は両手で包むようにその手を取った。女子高生のメイドに手を握られている大学生っぽい男性客は直立不動の状態で彼女からの言葉を待った。
その男性の悩みというのは、今付き合っている彼女に自分がオタクだと言うことを打ち明けるべきかどうかで悩んでいるらしい。
「オタクという趣味が自分にとって有意義な趣味なんだと言うことを彼女の前で断言できるのであれば打ち明けてもいいと思うわ。でもどこかに引け目を感じているのならば打ち明けるべきではないと思う」
紀子からの助言をもらったその男性客は紀子に手を握ってもらったままの状態で質問した。
「クミさんは、オタクというのが素敵な趣味だと思いますか?」
ぱっと見は普通の大学生風の彼からはオタク臭さは微塵も感じられない。
「んー、そうねぇ。素敵かどうかはなんとも言えないけど、それでリラックスできたり元気が出るんだったら、それは自分自身にとって良い趣味なんだと思うなぁ」
「はい、ありがとうございました。では次の人どーぞ」
メイドさんに促されながらも彼は名残惜しそうに最後まで紀子の手を握り続けていた。
二人目の相談者は、別のメイドカフェの女の子に一目惚れしてしまったのだが彼女に告白すべきか否か、と言うものだった。
「原則どのお店もそうだと思うけど、お客さんとの恋愛は厳禁です。でも彼女だって人間なんだから、あなたが誠意を持って接していればいつかは彼女の心を動かすことができるかもしれないわね。過度に期待せず、されど希望を失わないことが大事だと思う。女性って何にでも努力する男性の姿に惹かれるものよ」
「結構ガチな相談ばかりなんだね」
すぐ前にいたミエが私の方を向きながら小声で呟いた。
「ちゃんと真面目に答えてるノリちゃんって、偉いよね」
ミエの言葉にうなずきながら、どんな相談にしようかと真剣に考えた。最初は「夏休みの宿題が終わってないけどどうすれば良いですか?」と言った子供電話相談室的なくだらない相談でお茶を濁そうと思っていたが、そんなレベルではないようだ。
紀子に手を握られて顔を紅潮させる者、若干手が震えている者、逆に紀子の手を握り返して進行役のメイドから注意を受ける者、とさまざまな人間模様をしばらく眺めているうちにようやく私達の順番がやってきた。
「ヤッホー! やっと順番が来たよ~。お願いしまーす!」
嬉しそうにピンと手を伸ばす素子に苦笑いを浮かべながら、紀子が彼女の手を握った。
「素子は、悩みがないのが悩みってこと?」
「その通りでーす!」
「はい、あなたは今のまま生き続けて下さい。以上」
紀子が早々に手を離した。
「えーっ、もう終わりなの?」
そう言いながらも楽しげに自分のテーブルに戻る素子は確かに悩みなどこれっぽっちもないのだろう。羨ましい限りだ。
次にミエが手を差し出した。紀子は黙ってその手を握ると、おもむろに顔を見上げ、ニヤリと笑った。
「おやおや、ミエにしては珍しい恋のお悩みですか」
「何ですって!?」
紀子の言葉を聞いて、テーブルに座っていた素子がいきなり立ち上がった。
「ふむふむ……古河からもらった誕プレを開けて良いかどうか迷ってるのね」
「だって、開けたらお礼を言わないといけないじゃない」
「そっか、なるほど。誕プレは誕生日の夜、玄関先にこっそり置かれたもので、その中にはラブレターらしきものも一緒に入ってたと」
「手紙に『好きです』とかって書いてあったらどうしよう……」
ミエがあからさまに困った顔をした。ラブレターなんだから「好きです」と書かれているのは当たり前だと思うが、彼女にとっては古河から告白されたという事実すら認めたくないということなのか。彼女のこの態度を古河が見たら、きっとショックで立ち直れないかもしれない。
「でもさ、彼の気持ちを無視するというのはよくないと思うよ。彼の気持ちに対して何らかのリアクションをしてあげないと。たとえそれが結果的に彼を傷つけることになっても」
どうやら紀子は古河が振られる前提で話をしているみたいだ。ま、私も彼の想いが成就するとは一ミリも思ってはいないが。
「どちらにしても返事だけは必ずしてあげなよ」
私を含め残るは愛依と舞依の三人だけとなった。さすがに紀子の顔にも疲労の色が見えていた。
「お疲れ様」
そう言って出した私の手を紀子は黙ってしばらく握りしめた。
「ゆかり」
手を握ったまま、そっと話しかけるように言った。
「罪を憎んで人を憎まず。それができれば大丈夫。きっとうまくいくよ」
紀子の言葉が何を意味しているのかを私は瞬時に理解できた。いや、正確には理解できたような気がした。とにかく彼女のアドバイスが、頭の中にどんよりと広がっていた曇り空に一筋の光明をもたらしていた。
「わかった?」
紀子がウィンクを送った。彼女からのメッセージに私は黙ってうなずいた。
私が頭の中で紀子の言葉を反芻しながら席に着く頃、愛依の相談が終わって舞依の相談が始まるところだった。
占いコーナーのしんがりを務めることになった舞依は紀子が手を握っている間も少し顔を強張らせていた。
しばらく舞依の手を握っていた紀子は顔を上げるとニコッと笑った。
「自分の気持ちに素直になることが大事。大丈夫、相手も同じ気持ちだよ」
「自分の気持ちに素直になる? 相手も同じ気持ち? これって恋愛相談だよね!」
素子がまたテーブルをガタッと揺らして立ち上がった。
「蓮田さんって本当に手を握っただけで悩み事とかわかっちゃうんだね」
愛依が驚いたように言った。彼女の相談は、ペットを飼おうと思っているがどんな生き物が良いのか、というものだった。
「そうよね。私も半信半疑だったんだけど、実際こうやって言い当てられちゃうと信じずにはいられないよね」
ミエも目を丸くして愛依に同調した。
ふと、席に戻ってきた舞依と一瞬目が合った。そしてお互い同時に目を伏せた。
ひょっとしたら彼女からテレパシーが送られてくるのかもしれないと少し構えていたのだが、全く何も感じることはできなかった。
私達は店を出るとビルの前でひとかたまりになって、いつもよりも早めにバイトを切り上げてくる紀子を待った。
紀子を待っている間中、素子とミエが絶え間なくお喋りを続けている横で愛依が一生懸命うんうんと相づちを打っていた。
私と舞依はお互いに奥歯にものが挟まったような顔をしながら二人の会話を聞いていた。
「お待たせ」
「わーい、クミちゃんだぁ~!」
紀子は私達とは別の所から顔を出した。やはりあの店には隠し扉か隠し階段が備わっているようだ。
「スタッフ専用の出入り口が、あるのよ……」
紀子が急に顔を歪めた。心なしか顔色も悪い。
「大丈夫?」
ミエが心配そうに覗き込んだ。
「ごめん。ちょっと頭痛……」
舞依が急に自分のポーチに手を突っ込み、彼女が常用している頭痛薬とミネラルウォーターを取り出した。
「蓮田さん、よかったらこれ飲んで。頭痛によく効くから」
紀子は舞依から薬と水を受け取るとその場で飲み込んだ。
「ありがとう。よく頭痛薬なんて持ってたわね」
「私、頭痛持ちだから薬はいつも持ち歩いてるんだ」
「頭痛って辛いよね」
うなずく舞依に合わせて素子もうんうんと大きくうなずいて同意していた。素子には頭痛など全く縁遠いものだと思うのだが。
紀子とは高校に入ってからの付き合いになるが、これまで彼女が頭痛で苦しんでいる姿を見たことがなかった。だから何となく違和感を覚えながらも、まだこの時は最近体調が悪いのかな、くらいにしか思っていなかった。
最初は苦々しい顔をしていた紀子も駅に着く頃には表情も明るくなっていた。
「舞依ちゃん、もう痛くないわ。すごい効き目ね」
紀子は舞依から頭痛薬の名前を聞くとすぐにスマホで検索した。
「これって最近新発売した薬よね。CMで見たことあるわ。ゆかり、帰りに買ってくから付き合ってよ」
改札を抜けると私達は一番奥の乗り場へ向かう愛依と舞依に手を振って別れを告げてから手前の階段を上っていた。
頭上から列車が入線してくるというアナウンスが流れ、自然と急ぎ足になった。
三人とも健脚を自慢するかのように軽やかなステップで階段を駆け上がって行く中で私だけが三人から取り残された。
ようやく長い階段を上りきったあたりで電車はホームに到着し、電車から次々と人が降りてきた。
「ラッキー! ちょうど来たよ!」
素子が喜び勇んで電車に飛び乗り、紀子とミエもそれに続いた。
私は降りてくる人の波に飲み込まれそうになりながらも何とかドア付近までたどり着いた。ちょうどその時だった。
突然、誰かが私の腕をグイッと掴んだ。
私はびっくりして思わずその場に立ち止まってしまった。
その瞬間、先に乗り込んだミエと紀子が私を見て「あっ」という顔をしたのと同時に目の前のドアが閉まった。
私が振り返った視線の先には、息を弾ませた舞依がいた。
「……」
舞依は何かを言いたそうだったが、ハアハアと大きく肩で息をするのがやっとでなかなか言葉が出てこなかった。
全速力で下の通路から長い階段を一気に駆け上がってここまで来た舞依のことを思うと声をかけるのがためらわれた。
私はただ黙って舞依の紅潮した顔を見ていた。
「……ごめん……」
まだ呼吸の荒い舞依がようやく声を絞り出した。
「でも……今言わないと、もう、一生、言えないような、気がしたから……」
彼女は前屈みになっていた上体を起こして、少しずつ呼吸を整えながら次の言葉を言おうとしているみたいだった。
私は黙って彼女の次の言葉を待った。
「……ごめんなさい……」
彼女が発した「ごめんなさい」がさっきの「ごめん」とは違う意味なんだとすぐにわかった。だから私は無言のまま首を振った。
舞依は私のために、私にこのことを言うために、ここまで走って来てくれた。私にはもうそのことだけで十分だった。
私は彼女の手を握ると何度もうなずいた。
「……ごめんね……」
私が思わず漏らした言葉がこれだった。他にもいくつか言葉が思い浮かんだが、この言葉が今の自分の気持ちに最も当てはまっているように思った。
私だけが悩んでいたのではない。舞依も同じように悩んでいたのだ。彼女をそんな気持ちにさせてしまった私に非がないとは言えない。ならば私だって酷い人間なんじゃないか。私に彼女を責める資格なんてない。
「ごめんね……」
彼女がもう一度口にした。この言葉の意味が何を指しているのかがよくわからずに、ちょっとだけ眉間に皺を寄せた。
「あ、この『ごめん』は、『白岡さんを引き留めたせいで電車乗れなくてごめん』って意味ね」
舞依が私の困惑顔を察してフォローしてくれた。それって、最初に言った「ごめん」だったのではないのか、などと心の中でふと思って、余計に混乱した。
でも、そんな些細なことなど、もうどうでも良かった。
「ううん。ありがとう」
突然、舞依がクスクスと笑い出した。
「電車に乗るの邪魔されて『ありがとう』なんて、なんか全然会話がかみ合ってないんだけど」
「そうかなぁ」
「そうだよ。それにさっきから二人とも『ごめん』しか言ってないし」
「変かなぁ」
「変だよ」
日の傾いた駅のホームで二人は手を取り合ったまま顔を見合わせて笑った。
やがてそれぞれの電車に乗った後も、私と舞依はしきりにSNSで会話を交わした。それまで自分の胸の中で溜まっていたモヤモヤとしたものを吐き出しているかのようだった。
目の前で起きていること、夏休みどうやって過ごしていたか、明日はどんな予定があるのか、家で起きた何気ない出来事や最近見たテレビのことなど、思いついたことやその時の気持ちをお互いにそのままメッセージにして送った。
とにかく舞依と話をしたくて仕方がなかった。
舞依との会話は家に帰ってからも、食事中にお母さんから注意されても続き、さらには入浴中にもメッセージを返し、その夜ベッドの中で寝落ちするまでダラダラと続いた。
二人の会話で一つわかったことは、もう夏休みが終わろうとしているこの時期に二人ともまだ夏休みの課題をたっぷりと残したままだということだった。
(つづく)
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