海の広さを知る者ら

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海の広さを知る者ら

 井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る。  海洋研究所で働く生真面目な男は、異国の言葉が書かれた紙をかかさずに持ち歩いてる。 「シキくん、連日泊まり込んでいるだろう。今日は帰りなさい」 「いえ、こんな時に僕だけ帰れません」 「いいから帰りなさい。所長命令だ」 「……はい、わかりました」  男は緩んでしまいそうな口に力を入れて必死にいつも通りを繕う。 「セイレーンの事は一旦忘れてゆっくり休みなさい。必要なら長期休暇をとってもかまわない。シキくんの今までの働きを思えば、足りないぐらいの休みしか取れないだろうがね」 「いいえ、もったいないお言葉ありがとうございます」  失礼します。男は短く告げると足早に研究所を出る。  早く家に帰りたい? 家に好いてる人がいる? まぁ、はずれではないが当たりでもない。男は一人暮しの独り身、それに人間の女になどミドリムシほどの興味もない。  ならば、なぜ男は足早に家に向かうのか。 「ただいま」  その答えは男の家の風呂場にいた。  男とその生物が二人でいるには狭いユニットバス。男はトイレの蓋を閉めて、その上に偉そうに足を組んで座る。 「ねぇ、ここ狭すぎるんだけど」  バスタブに収まっていない尾びれを空中でばたばたとさせているその生物は、顔を歪めながら文句を並べる。 「こんなに劣悪な環境ならあの研究所の方がマシだった気がする。はぁ、人を間違えたかも。やっとあの研究所とおさらばできたって言うのに、その研究所の方がマシって思ってどういうことよ」  男はつらつらと口を止める気配のない生物を冷ややかな目で見ている。そして動いたかと思うと、蛇口を捻りシャワーから出る熱湯をその生物にかける。 「あっつ⁉ はぁ? あんた何考えてるの⁉」  男の奇行に生物は声を荒らげる。 「私が火傷でもしたらどうする気で」 「うるさい」 「……はぁ?」  生物は先ほどまでの甲高く耳に刺さる声ではなく、低く威圧するような声を男に向ける。 「いいか、お前の役目は俺の言いなりになること。だらだらと生産性の無い言葉を並べることじゃない。何のためにわざわざお前を研究所から攫ったと思ってる」  生物ははて? と首を捻る。何かが引っかかるらしい。 「えっ、なにそれ、は? おかしくね?」 「何がおかしい」 「だって、あんたは私に誘惑されて、私を助けたくなってここに連れてきたんじゃないの?」  男は生物を相も変わらず冷ややかな目で見ている。 「何言ってる、お前は阿呆か」  生物は男の言葉を聞いて少し経ってからはぁ⁉ と素っ頓狂な大声を出す。 「私、ここらのセイレーンをまとめてる強くて可愛いセイレーンなの。そんじょそこらの人間の男なんてすぐものにできるはずなんだけど」 「それ……自分で言うことか?」 「だって事実だもん。セイレーンの長、カルメン。私の名前を聞けばここらの海の生物は怖がって逃げてくんだからね!」  口早に自慢を始めるセイレーン、名前はカルメンというらしい。男はカルメンの話を聞く気はなく、早々に風呂場から離れる。  風呂場からカルメンの甲高い声が聞こえてくるが、男は構うことなくがさごそと大きなカバンの中を漁り、銀色の何かを取り出して風呂場に戻る。 「……なにそれ」 「解剖するのに必要な道具」  なんとも物騒な言葉にカルメンはびくりと身体を震わせる。だが、動揺がバレないようにいつも通りを取り繕う。 「解剖って……なにを解剖する気なの?」 「……はぁ」  男はそれはそれはものすごく長いため息を口から吐き出す。漏れ出すの方が正しいかもしれない。兎にも角にも呆れて言葉も出てこない、そんな様子で頭を抱える。 「この場にいるのは俺とお前だけ。そして解剖道具を持ってきたのは俺。これでも理解できないならセイレーンは低能な生物ってことだな」  男の言葉にカルメンは顔を真っ赤に染めつつ、目には憎しみが渦巻いている。 「あんた、私を解剖して何がしたいの?」  カルメンは心の中に次々と湧き出てくる汚い言葉を外に出さないように必死に抑えつつ、男の思考を知ろうと言葉を繋げる。 「セイレーンの声帯を知ったら船が難破せず、無事に航海ができるとでも思ってんの?」  カルメンは頭を必死に捻り続ける。一方の男はカルメンの話を聞く素振りはなく、かちゃかちゃと解剖道具をいじっている。 「私たちの声帯をみたって歌の正体はわからない。あれは私たちが生きているからだせるもの。死んだ声帯を調べたってなんの意味もない」  カルメンたちセイレーンという生物は上半身が人間で下半身が魚。セイレーンは海に住み美しい歌声を持っている。その歌声を聞いた船乗りたちは惑わされ、そして船は難破。海に投げ出された船乗りたちを食べる。それがセイレーンという生物。  セイレーンであるカルメンと人間である男は相容れない存在。 「私たちセイレーンは元を辿ると神々の血を待つ者。神々が作ったあんたら人間なんかが私たちに敵うはずがない」  男を挑発して感情的にさせて、近づいてきたところを食らう。それがカルメンの計画。  死なない程度に肉を食らって死にたくないと願う男を使い自分を海に連れていかせる。海に着いたら残りの男を食らう。  我ながら完璧すぎる計画! カルメンは鼻高々にドヤ顔をするも、 「なんで私の事全然見ないわけ⁉」  カルメンのことを全く見ずに解剖道具をいじくる男の態度に我慢できず、大声を出してしまう。 「違うじゃん、今はそれをいじる流れじゃないじゃん! 私の話を聞く流れでしょ⁉」 「流れってなんだ」 「んぁ〜〜! この自由人が!」  今度は男の態度にカルメンが頭を抱える。 「言っておくが」  男はカルメンがギロリと鋭い目付きで睨んでいることなどお構いなしに話を続ける。 「俺は海洋研究所に勤めているが目的は全く別のところにある」 「海洋研究所の職員なら、みんなセイレーンの声帯を研究してどうにかするのが目的なんじゃないの?」  男が暮らしてる港町は昔からセイレーンの被害に頭を悩ませており、そんなセイレーンをどうにかするために海洋研究所が作られた。  つまり、とても簡単に大雑把にまとめると海洋研究所の目的は全てのセイレーンを殺してしまうこと。殺すために日々セイレーンを観察し、情報を集めている。 「俺はセイレーンを虐殺するつもりは無い」 「……じゃあ、何が目的なの。ってかさ! 今あんたは私を殺そうとしてるじゃん。解剖なんか物騒なことをなぜしようとしてるの?」 「俺はセイレーンの生体を知るために海洋研究所にいる」  カルメンはぽかんとしたまま固まってしまう。 「あ、声帯じゃないからな。声の声帯じゃなくて生体。生きてる体の生体の方。海洋研究所が知りたいのは声帯。俺は声帯じゃなくて生体が知りたい」 「せいたいって言葉が飽和してきた……」  男の言葉をうまく理解できずにたくさんのはてなを浮かべているカルメンの事など気にせずに、男は話を続ける。 「俺は生きとし生けるもの、今生きてる全ての生物を愛している」  カルメンは浮かべていたはてなを引っ込めた。いや、引っ込まされた。 「愛し、てる……?」 「そうだ。俺は全ての生物を愛してる」  男はカルメンの質問にもう一度同じ言葉を発する。男の顔は何も変わらない。さっきカルメンを解剖すると言っていた時と少しも変わらない。 「嘘だ‼」  悲鳴に近い。というか、ほぼ悲鳴でカルメンは男の言葉を否定する。カルメンの頭は思考停止しているが、頭ではないどこかから出てくる言葉をそのまま男にぶつける。 「だって……だってさ、あんたは私を解剖しようとしてるわけじゃん……? 全ての生物を愛しているなら、私を殺そうとするわけなくない⁉」  カルメンの言うことは至極真っ当である。それなのに、男は何を言っている? そんな目でカルメンを見ている。 「大勢を助けるためには犠牲が必要だろう。お前はその犠牲になるだけの話」  わけがわからん。この男は何を言ってるんだ。カルメンの頭はやっと思考し始めたが、思いつくのはそんな事ばかり。 「ってことだ。お前は犠牲になれ」  男はぶっきらぼうに短くそう言うと刃物を持ってカルメンに近づく。 「ぎゃー! やだ変態! 近づくなあっち行け‼」  カルメンは狭いバスタブの中で体を動かして全力の抵抗をする。  カルメンが動くたびにバスタブに溜まっている水がばちゃばちゃと音を立てながら右に左にと波を立てる。  男がカルメンを抑えようと手を伸ばした時、その波はバスタブでは収まらない高さになっていた。ことの次第は言わずともわかるだろう。  ここは狭いユニットバス。ずぼらな男は必要なものを全て直で床に置いている。例えばトイレットペーパー。 「トイレットペーパーが……死んだ」  床に置いてあった複数個のトイレットペーパーに水がかかった。  それが思いのほか衝撃的だったらしく、男はぴたりと動きを止める。カルメンはよっしゃと小さくガッツポーズ。心の中ではざまぁみろと毒を吐く。 「あのトイレットペーパー安かったのに……大事に使ってたのに……全部、死んだ」  異常に落ち込む男。その姿を見ているカルメンは心がきろりと痛む。いや、自分を殺そうとしてた男なんかのためになぜ私が心を痛めないといけない。 「なんで私が悪者みたいになってんのよ」  カルメンの一言に男ははっとする。そしてけろりと言い放つ。 「確かに。俺はお前を殺そうとしてるけど、お前はトイレットペーパーを濡らしただけ。うん、明らかに悪者は前者の俺だよな」 「……あんた、嫌い」  この一件で男はだいぶ疲労したらしい。解剖道具をがちゃりと雑に床に落とす。 「俺は全ての生物が好きだ。人間もセイレーンも鳥も獣も、生きとし生けるもの全てが平等に平和に生きることを望んでいる」  突然語り出した男の話をカルメンは茶化すことなく静かに聞く。 「この町は人間とセイレーンが力を持ちすぎてる。だから、俺はその二つの生物をこの町から追い出したい。他の生物が自由に生きることができる土地を作りたい」  あぁ、そう言うと男は何かを思いだして言葉を付け足す。 「海は広い。どこまでも広がっている。この町を離れても、人間とセイレーンが住める土地なんてどこにだってある」  男は話し終えたらしく、だらんとトイレの蓋に座り直す。そんな様子に興味がなさそうなカルメンは言葉を選ぶことなく男に言葉をぶつける。 「あんた、変態で生真面目なんだね」 「……そう、俺は変態で生真面目らしい。よく言われるからもうなんとも思わない」  男はくたびれたパーカーのポケットから黄ばんだ紙を取り出す。 「何それ」 「井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る。俺の好きな異国の言葉」 「どういう意味なの?」 「井戸の中にいる者は広い海を知らないが、狭い世界にいるからこそ見えてくるものがある。そんな意味らしい」 「ふーん」  カルメンは何か考えているような声で返事をする。そしてふと、あることに気づく。 「あんたがいる研究所って私たちセイレーンだけじゃなくて他の海の生物の事も研究してるんでしょ? なら、この言葉はあんたら研究員の事指してるみたい」  カルメンが言った言葉は深く考えずに発したものだったが、男はその言葉に力なく笑う。 「……確かに、そうかもしれない」  男はそう言うとぶつぶつと何かをつぶやき始める。カルメンはきもっと短く言い顔を歪める。 「私、殺されるのは嫌だ。あんたの訳分からん考え何かのために死にたくない」  未だにぶつぶつとつぶやく男の事など気にせずに、カルメンは言葉を続ける。 「だから、あんたに協力してあげる。人間の事は知らないけど、セイレーンの長たるカルメン様が協力してあげるんだから感謝しなさい!」 「……きょう、りょく?」 「そ、協力。この町の海に住み着いてるセイレーンたちを何グループかに分けて他の海に引っ越すの。あんたの言う通り、海は広いからね。どこでも私たちが住める場所はある。この町から人間がいなくなったら私たちも死んじゃうし、その前に引っ越すの。いい考えじゃない?」  カルメンの提案に男はすぐには反応せずに、手に顔を置いて考え始める。 「あ、私たちセイレーンは人間を食べる生き物だから人間食べるなとかはなしね。絶滅しちゃう」 「それは気にしてない。弱肉強食なのはこの世の理。それを否定する気も止める気もない」 「あっそ、なら私の提案は魅力的でしょ? 早く協力してくださいって言いなさいよ」  攫ってきたセイレーンの言いなりになるのは気に食わないが……背に腹はかえられない。男はどうやったら殺さずにセイレーンを追い出せるかに頭を悩ませていたため、カルメンの協力が得られるのは願ったり叶ったり。 「……言ったことはしっかりやれよ」 「疑り深いなぁ、このカルメンを信じなさいってば!」  そう言うとカルメンは男に向かって手を伸ばす。男は少し躊躇したが、その手を掴んだ。  この瞬間から二人の協力関係が作られた。 「よし、これで私らは敵じゃなくて味方。よろしくねっ!」 「……よろしく」 「んね、私お腹減ったからなんかちょうだい」 「俺を食わせろってことか?」 「人間も食べたいところだけど、それ以外のもので手を打ってやろう」  カルメンの上から目線の物言いに腹を立てながらも、男は台所から何かを持ってきた。 「これでも食ってろ」 「なにこれ?」 「パン」  カルメンはパンというものを見た事がなく、興味深そうに隅々まで観察している。 「ねぇ、この白いまだら模様は何?」  男はそんなものついてるはずがない、そう言ってカルメンからパンを受け取る。 「あっ、これカビてるわ」 「カビって何?」  男はパンをカルメンに再び渡す。 「それ食うと普通は腹壊すけど、お前らセイレーンは人間食ってるし大丈夫だろ。食え」  カルメンは男に向かってパンを投げつけながら大声で叫ぶ。投げつけられたパンは跳ね返ってカルメンの入ってるバスタブにぽちゃりと入水した。もう食べれる状態では無い。 「やっぱりあんたのことなんか大っ嫌い!」
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