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異端
「私のこと、もう好きじゃないの?」
夕方、薄暗い喫茶店で俺と彼女は奥のテーブル席に向かい合って座っていた。彼女の前には未だ中身の入ったティーカップとシュガーポットが置かれ、俺の前には既に空っぽになったコーヒーカップが置かれている。
客は少なく、ドアの近くの席に一人、カウンター席に一人、そしてカウンターの向こう側に店員が一人いるだけで、店内は僅かな物音も響き渡りそうなぐらい静かだ。
しかし、そんな静寂に似合わない発言をしたのは、彼女だった。
「その話、今するの?」
俺は周りを気遣いながら小声で言う。彼女は「だって……」とだけ言い、肩を竦めながら眉をハの字にして俺を見た。
「あのね、周りに人がいるでしょ。こういう話は人様に聞かせるものじゃないんだよ」
「だけど、今しかないと思ったの」
「まず、その話をする理由がわからないよ」
俺はテーブルの上で腕を組み、視線を彼女からコーヒーカップの内側の茶色い染みに移した。時間が経ったせいか、カップの内側は少し乾いている。
彼女は何か言いかけ、どもり、一度息を吐いてから答えた。
「何度も言っているけど、LINEの返事やっぱり遅すぎるよ。普通恋人だったらいつも繋がっていたいものだよ。電話だって、どうしてしてくれないの? 私電話でも色々お話ししたいって言ったよね?」
俺は何も言わなかった。彼女は構わず続ける。
「それに、どうしてツーショットの写真撮らせてくれないの? 二人の思い出が欲しいのは、恋人として当然じゃないの?」
別に、反論できないわけではない。わざわざ言葉を選び、紡ぎ、声に出す気力が湧いてこなかった。俺の返事がないことがわかると、彼女はさらに続けた。
「デートのときだってさ、全然会話してくれないじゃん。いつも私ばっかり喋ってさ、それなのにそっちは黙ったままじゃん。私すごく不安になるの。もっと色んな話してくれてもいいじゃない」
彼女の声は徐々に大きくなり、勢いが増していた。俺は思わず周りを見回す。いつの間にかカウンター席の客がいなくなっていた。店員が皿洗いをしているのか、水の流れる音がする。視線をそっと前方に移すと、眉間に皺を寄せた彼女と目が合った。彼女は、黙って俺の返事を待っている。
俺は小さく溜息を吐き、また彼女から視線を逸らした。今度は彼女のティーカップを見つめた。あんなに大量に砂糖を入れたくせに、紅茶の量はほとんど減っていない。何か言葉を返すため、でも、少しでも彼女と距離をとるため、腕をテーブルから下ろし、椅子の背もたれに体重を預けた。
「……前にも言ったけど、LINEとか電話での雑談があまり得意じゃないんだ。友達とだってしてないよ。写真も、撮られるの昔から好きじゃない。会話だって、恋人だったら必ず何か話さなきゃいけないわけじゃないでしょ?」
それに君はお喋りだから、俺の話なんていつも聞いてくれないよね。
……最後に心の中で紡いだ言葉は、出さずにそのまま飲み込んだ。彼女からの返答はない。どんな顔をして、どこを見ているかもわからない。
しばらく沈黙が続いた。テーブルの下で指を弄り、それを見つめているだけで、悪戯に時が流れていく。
不意に彼女が動いた気配を感じ、俺はそっと前方を見た。彼女が紅茶をちまちまと飲んでいる。きっと、帰り支度をしているのだろう。ひとまず納得してくれたのならいい。解放感から俺は深く息を吸い込み、吐き出した。
陶器のぶつかる音がする。彼女がティーカップをテーブルの上のソーサーに戻した音だった。飲み終えたのだろうか。
「帰ろう」
俺はそう言い、ポケットから財布を抜き出した時だった。
「普通恋人なら、彼女を優先するでしょ」
突如発せられた言葉の意味が理解できず、ゆっくり彼女の方を見る。その視線は、真っ直ぐ俺を捉え、貫いていた。もう、先ほどまで悲しげに訴えていた女性はいなくなっていた。怒りに満ちた眼差しで、鋭い声色で、俺を威嚇していた。
それが理解できたとき、俺の中の何かが切れたのを感じた。俺は椅子からを音を立てて立ち上がり、財布から乱暴に取り出した一万円札をテーブルの真ん中に叩きつけた。目を丸くした彼女が俺を見上げている。俺はもう、どう見られても良くなっていた。
「俺はお前の中の“普通の恋人”にはなれない。俺は普通の人間じゃないんだよ」
そう告げ、彼女に背を向けてドアへ向かい歩き出した。客はもう俺らしかいなかった。彼女の嗚咽が聞こえてくる。しかし、俺は立ち止まらない。店員の視線も、彼女の視線も、俺はもう一切気にならなくなっていた。
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