現刻

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現刻

 細い細い三日月が低い位置に顔を出す頃、髪を振り乱しがくりがくりと不器用に揺れながら歩く女の為に家路を急ぐ人々は皆道を開けた。 「紅葉(もみじ)、紅葉、酒は飲んだか? 団子は足りたか? お山が色付く頃にあの人と……紅葉、紅葉、涙は枯れたか? 心は──」  調子をつけて紡がれる言葉は歌となり、すれ違う者の耳を奪った。  女は決して醜女ではなかった。むしろ美しい女であった。その美しさゆえ、壊れた人形のような動きや嗄れた声が異様に映った。 「なんだ、あれ」 「おっかないねぇ」  そんな小さな呟きに女は唇の端を微かに上げた。  遠巻きに自分に向けられる視線の中、彼女は勢いよく振り返り、歩いてきた道の奥にある山を指差した。 「山が、山が燃えるよ! 見ててごらん、山が燃える!」    そのセリフに皆が彼女から視線を外し、指の先にある山を見た。  あはははははははははははははははははは。  狂ったような笑い声の中、彼女の姿は消え、山の裾から音がしそうな勢いで深く暗い緑から目の覚めるような赤に姿を変える山を誰も声を出せずに見つめていた。  夕焼けよりも濃く、山の姿が変わってゆく。 「なんだ? 火付けか?」 「女はどこだ?」 「消えちまった! (ケム)のように消えちまった!」 「付け火なら、あの山には池もなけりゃでかい川もねぇ。早く火消しを呼んで来なきゃあ、この村まで火が来るぞ!」    山火事だ、と叫びながら人々はそれぞれの思いを抱えて走り出した。  ある者は家族の待つ家へ、ある者は火消しを呼びに、ある者は山へ。押し退け、ぶつかり合い、皆が必死で誰の耳にも女の笑い声はもう聞こえていなかった。
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