幸も不幸も、今日は明日に

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 結婚5年目にして、やっと授かった子供の妊娠から出産までは、不安がいっぱいだった。  分娩台で出産にかかった時間は20分程度と、あっという間だった。  沙弓(さゆみ)は生まれたての我が子を抱きしめながら、感極まって涙が溢れた。 「じゃ、お母さん。お子さんは今日は保育器に入ってもらいますからね」 自分より若い助産師が、慣れた手つきで沙弓から赤ん坊を受け取る。沙弓は彼女の安定した抱き方で、泣いていた赤ん坊が泣き止むのを羨ましく感じた。 「山中さん、2か月もよく頑張りましたね」  主治医が沙弓を労わるように声をかけた。そうだ、2か月も入院して安静を保ってきた。沙弓は切迫早産で入院中の日々が今日報われたことをやっと実感できた。 「ありがとうございます。本当にありがとうございます」  沙弓は、やっと嬉しさといえる気持ちが込み上げてきた。 「山中さんったら、赤ちゃんより泣いてますね」 「おめでとうございます。山中さん」  病棟のスタッフが温かく声をかけてくれた。  後になって、この時だけが沙弓にとって一番幸せな瞬間であったと思えたのだった。  その日は、日が暮れても夫からの連絡は無かった。電話も不在でラインも既読が無い。沙弓は病室で搾乳にいそしみながら、先ほど電話で話した母の不自然な態度を思い返していた。夫にどうにも連絡がつかないことを母に相談したのだ。 「お母さん。まだ茂と連絡つかないんだけど」 「大丈夫よ。茂さんの職場の人から、今すごく取り込んでるって聞いたわ。あんたに伝えといてって言われたわ」 「茂の職場の人? 誰?」 「もう、あんたは自分の身体と子供のことだけ考えて。世間がこんな状況だからね」  現在、病院は新型肺炎の感染防止策として、面会制限がしかれている。出産といえども家族が立ち入れない状況だった。  まさか、茂の体調に何か? 「お母さん、もしかして茂、コロナになったとか?」 「え? まさか。大丈夫よ」 「じゃあ何? 仕事のトラブル? もしかして事故とか?」 「あっ……」 「お母さん?」 「もう心配ないから。大丈夫だから。あんたはちゃんと休みなさい。じゃあね」  沙弓は、茂の安否を確認した途端、母が動揺した様子が気になった。  茂と連絡を取り合ったのは昨日の昼が最後だった。出産予定日に病院に来るよう連絡したのだ。 『俺、行けないけど構わないだろ』  茂の返答は冷たかった。しかし、長期の入院で夫に迷惑をかけている負い目のある沙弓には、それを責める気持ちは無かった。 『あの、家族待機室にいて欲しいって』 『はあ、なんで? コロナで面会禁止だろ?』 『出産のときは、あの、あたしと赤ちゃんの万が一に備えて父親にいてもらうんだって』 『なんだよ、万が一って。行くけどよ、遅くなるぞ』 『あ、ありがとう』  そんなやりとりに、沙弓は気持ちが沈み込むのを感じていた。  茂には、父親としての愛情はあるのだろうか? 沙弓は不安でたまらなかった。  妊娠が判明した時も、茂からの反応は、戸惑いの方が勝っていたように沙弓には感じられた。それでも、時間をかけて父親としての自覚も出てくるのだろうと、気にしないよう努めた。しかし、妊娠中の沙弓の体調は不安定で、妊娠中期には切迫流産で入院し、一時退院しても、すぐ再度入院して出産に至ったのだ。  茂からすれば、入院ばかりしている妻の出産に気持ちが入らないのだろうと、沙弓は恨むより諦めるよう自分に言い聞かせていた。自分が無事に出産して、我が子を家に連れて帰れば、茂も父親としての愛情が芽生え、全てがうまくいくはずだと思うようにしていた。 「今日が、あなたの子供の誕生日なのに……」  いつの間にかあふれ出ていた涙を拭いて、沙弓は自分の母乳に満たされた哺乳瓶を握りしめて、新生児室に向かった。  新生児室に入ると、複数の患者が授乳に訪れていた。数人はスマホを我が子にかざして画面の向こうの父親に見せている。このご時世で面会に来れない父親たちが、リモートで我が子と面会しているのだ。母に抱かれた赤ん坊に、画面の父親が満面の笑みで話しかけている。  母親たちは皆一様にマスクをしているが、目元は微笑みで和んでいた。沙弓はマスクを下瞼に触れるぐらいに引き上げて、涙の跡を少しでも隠そうと試みた。  搾乳した母乳を看護師に預けて、沙弓は子供の入っている保育器の傍に座った。赤ん坊は、オムツのみ着けて半裸の状態だが、寒くはないのだろう。肌は赤みがかってふわふわと薄い体毛が呼吸に合わせて揺れている。目を閉じて眠っているように見えるが、小さな口をたくたくと動かしていた。もうすぐ目覚めるだろう。沙弓は保育器の窓から手を入れた。透明の箱の中は温かい。冷たい自分の手が少し温もるのを待って、赤ん坊に触った。 「ふんぎゃー」  赤ん坊は全身をびくっと振るわせて、顔をくしゃくしゃにして、手を握りしめ、渾身の力で泣き出した。  触れてる沙弓の手に、鳴き声が暖かな振動として伝わってきた。 「あ、お腹すいてますね~。おっぱい飲ませましょうね」  看護師が近寄ってきて、沙弓の預けた母乳の入った哺乳瓶を持って保育器に両手を入れ、片手で赤ん坊を起こして支え、もう片方の手で哺乳瓶を持って飲ませ始めた。  んくんくと喉を鳴らして搾母乳を懸命に飲んでいる我が子を、沙弓は食い入るように見つめた。やがて飲み終えた赤ん坊は、大きなげっぷをして、また眠りについた。小さな胸が呼吸に合わせて波打つように動いている。しっとりと潤った唇から涎が垂れていた。看護師は赤ん坊を丸まっているような姿勢に整えて去っていった。  この姿勢で昨日まで私のお腹の中に入っていたのね。沙弓は今は空になった子宮のある自分のお腹をさすった。後陣痛でやや痛みを感じるが、その反動のように乳房が固く満ちてくるのがわかる。 私は母親になったんだ。  翌朝、沙弓の子は保育器から出て、コットと呼ばれる車輪付きの小さなベッドに移されていた。母乳も直接おっぱいから飲み始めて、飲んで寝てを繰り返している。  昨夜は不安からひどく疲れてしまい、茂への連絡を諦めた。そして、昼過ぎに茂の様子を絶対に知っているはずの人物に電話をかけた。 「もしもし、お義母さん。沙弓です。ご無沙汰してます」 「……何の用ですか?」  茂の実母は、沙弓にとって、苦手を通り越して恐ろしい存在だった。結婚当初から沙弓への不満を隠そうともせず、数年妊娠しないことをずっと責めていた。一度は役所から離婚届を取り寄せて、サインを迫ってきたほどだ。「不妊の女は嫁とは言えない。実家に帰ってちょうだい!」と激しく罵られたこともあった。  そんな義母から、茂は結婚当初は沙弓をかばってくれていたが、そのうちに関わりを避けるようになっていた。  今回の妊娠も、体調が不安定だったことから、沙弓は自分の精神状態を守るために義母を避けていた。義母の方も、何故かこの頃は沙弓のことなど忘れたかのように、連絡は途絶えていた。 「あの、茂と連絡つかなくて心配で。お義母さん何かご存じじゃないかと……」 「何白々しいこと言ってるの? 今更」 「あの、私、昨日出産で、でも茂が来なくて」 「何言ってんの? あんた流産したんでしょ。出産って何?」 「え? 流産? いえ、昨日産まれましたよ」 「うそ……。何? 茂っ! 出産ってどういうこと? あんた、嫁は流産したって言ってたでしょ!」 「あの、お義母さん? 茂そこに居るんですか?」  そこで電話が切れた。沙弓は茫然と「通話終了」の画面を見つめていたが、まずは茂が無事でいることが伺えて安堵した。義母と一緒に居るらしいが、何か事情があるようだ。それにしても私が流産したことになっていたなんて、どこでどうなっているのか。沙弓は、苦笑できるくらいには、気持ちに余裕が出来ていた。  しかし、この後から沙弓に雪崩のように、苦しみが次々と覆いかぶさってくることになるのだった。  次の日は、沙弓は赤ん坊の沐浴を習っていた。お湯に入れると、驚いたのか、両手足をぴっと伸ばしてクモのような格好になったので、沙弓はもう少しで赤ん坊をお風呂に落としそうになった。その様子に隣で沐浴していた女性が自分もそうだったと笑ってみせた。バスタブから立ち上る暖かな湯気と、ベビー石鹸の香りが、沙弓の疲れた気持ちを優しく包み込んでくれる。 「山中さん、少しお時間いただけますか?」  沐浴後の授乳を済ませたところで、待ち構えていたかのように看護師に声をかけられた。  面談室と書かれた個室に案内されると、そこには別の看護師が居た。見慣れない顔だった。産科病棟のスタッフではないようだ。救急センターの師長だと紹介された。 「あの、うちの子に何かあったんですか?」  沙弓は真っ先に赤ん坊に何か病気でもあったのかと考えたが、すぐに否定してもらえた。 「山中さん。ご主人のことです。いえ、まずはご無事ではありますので、そこはご安心ください」 「茂が? どうなってるんです?」 「交通事故でお怪我をされまして、それで救急入院室にいます。けがは大したことないので、もうお帰りになってもよいのですが」 「交通事故? どんな? 誰かをケガさせたの?」  沙弓は真っ青になった。指先が強張って感覚が無くなっていく。 「事故の詳細は私どもはわかりませんが、他人をケガさせたのではないそうです」 「あ、ああ、良かった。主人はどこに……。私、会いに行けますか?」 「はい、ご案内致します」  沙弓の入院している産科病棟とは別棟に救急センターがあった。沙弓は自分が出産中に、茂が災難に見舞われていたことを知って、少しでも彼を恨めしく思った自分を責めた。  茂のベッドは、奥の個室だった。  沙弓は、その部屋の前に体格の良い男性が2名立っているのを見て、違和感を覚えた。どう見ても病院関係者ではない。誰?  とりあえず軽く会釈を交わして、部屋に入ると、茂が居た。ベッドに寝ており、天井を見つめている。 「茂、大丈夫?」  沙弓は駆け寄って、茂の手を取ろうとしたが、彼は顔をそらし、沙弓の手を振り払った。 「茂?」 「……」  沙弓が顔をのぞき込もうとすると、茂は布団を顔までかぶって潜り込んでしまった。 「ねえ、どうしたの? ケガ大丈夫なの? なんで何も言わないの」 「うるせえ……」  うなるような茂の返答に、沙弓ははたはたと涙が零れてきた。 「私、心配したんだよ。連絡無くて。ねえ、生まれたよ。男の子だよ。とても元気」  沙弓が必死になって告げたが、夫の返答は驚くものだった。 「関係ねえな」  絶句した沙弓は、ふらふらと立ち上がり茂のベッドから離れた。  何かがおかしい。何かが違っている。夫は冷たい人間だが、ここまででは無かった。そういえば義母は昨日ここに来たのだろうか? 何故、ケガしたこと黙っていたのだろう。私に言えなかった? 表に立っている2人の男。まるで見張りのようだった。けがは軽いと言われたのに、奥の部屋に、まるで閉じ込められるように入院している。 「茂。何したの?」  沙弓の問いかけに、茂が潜り込んだ布団の固まりがびくりと跳ねた。  無言を決め込んだ布団の固まりと話すことを諦めて、沙弓は部屋から出た。  そこには先ほどの師長と、茂の主治医が居た。沙弓は別室に案内されて夫の病状説明を受けた。茂のけがは擦過傷と打ち身程度で後遺症も心配ないこと。しかし、事故当時酩酊状態だったため、血液検査がされて薬物反応が出たことが告げられた。 「あの、薬物反応って、なんのことですか?」  沙弓はきょとんとした。 「ご主人の血液から、覚せい剤が検出されています」  この人は何を言っているの? 沙弓は医師の言葉が呑み込めなかった。むしろ、余命何日ですと告げられる方が病院らしくてしっくりする。覚せい剤? 誰の何から出たって? 「嘘……。まさか、何で?」  その後も、何か説明されて、書類にサインを書いたりしたが、沙弓は上の空でぼんやりしたままだった。 「では、ご主人は退院ということになります。あの、この後は警察が引き継ぐはずなので……もう一度ご主人にお会いになりますか?」  師長に促されたが、沙弓は震えあがって激しく首を振った。 「いえ、いいです!」  覚せい剤なんて、茂は犯罪者だった。恐ろしい。沙弓はただただ自分の夫が怪物のように思えて、近づくのも嫌だった。  その夜は、沙弓は赤ん坊の授乳に行かず、ずっと病室で泣き明かしていた。おかげで朝には瞼も乳房もぱんぱんに腫れて、ひどくつらい思いをした。その日は、看護師が病室に赤ん坊を授乳時間ごとに連れてきてくれた。  病室でカーテンを閉めて、薄暗い中で赤ん坊に授乳をしているうちに、この子の名前をまだ決めていないことに気付いた。茂と相談して候補の中から決めるつもりだった。週明けには退院予定だ。出生届だって出さなきゃいけない。  こんな状況で、こんな気分で名前を付けなければならないなんて、こんな親を持って、この子はなんて不幸だろう。 「ごめんね、ごめんね。ごめんなさい」  無心にお乳を吸う赤ん坊のおでこに、沙弓の涙が零れ落ちた。  子供は啓太と名付けた。候補にしていたどの名前とも違う。自分の父親が『啓介』という名なので、一文字もらった。茂からなるべく遠ざかりたいとの思いがあった。沙弓の両親は孫の名前に苦笑しながらも、沙弓に頼まれて出生届を提出してくれた。  啓太はよく飲み、よく寝る子で順調に体重も増えて退院となった。沙弓も一緒に退院する。沙弓の母が退院日には迎えに来てくれた。ただし、私服の警察官を伴っていたが。  退院前日に母親から電話があったのだ。警察が沙弓の家の家宅捜索を、住人の立ち合いで行いたいとのことだった。  自宅に帰るのは2か月ぶりだった。  沙弓は啓太を抱いて、母の車に乗った。警察官は黒いワゴン車で後をついてくる。 「なんで、病院まで来るの?」  沙弓はすすり泣きながら言った。 「形式的なものじゃない? 沙弓は茂さんの妻だし、証拠隠滅しないようにって」  母がなだめるように言った。 「そんな、家に覚せい剤があるかもってこと?」  そんな恐ろしいものがある家に、啓太を連れて帰るなんて。沙弓は震えあがった。    自宅に着くと、後続の警察車両も車庫の傍に止まった。この一軒家は、茂の両親が頭金を支払ってくれた2世帯住宅だ。まだ20年ローンが残っているが、将来は茂の両親と同居する予定だった。  警察から書類を見せられながら説明を受けて、沙弓は家の鍵を開けた。啓太は母親と一緒に車の中で待ってもらうことにした。警察官らは、客人のように控えめに上がり込んだ。もっと、ドラマのようにどかどかと土足で上がるのかと思っていたので、沙弓は意外な気がした。そして、玄関先の違和感に気付いた。  夫の靴が無い。  茂は着道楽で、靴や服はけっこうな量を持っていた。玄関先の靴箱は、殆どが茂の靴のスペースになっていたが、何故か3足程度のサンダルが残っているのみだった。 「奥さん、ご主人のお部屋を調べても宜しいでしょうか?」  警察官に声をかけられて、沙弓は機械的に頷いた。  家の中の空気は淀んでいる。沙弓はキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。卵と調味料、あと黒く変色した野菜が入っている。卵の賞味期限表示は先々月の日付だった。  沙弓は茂が使っている書斎兼寝室を覗いてみた。警察官が3名ほどいたが、空っぽの部屋の真ん中に立っているだけで、捜索しているような素振りはない。もっとも、捜索しようにも、茂の私物は殆ど無かった。 「あ、もう済みましたので、お邪魔しました」 「え、あ、そうですか。あの、それで……何かありましたか?」  来て20分程度で、帰り支度を始める警察官に、沙弓は慌てて問いかけた。  警察官は少し逡巡していたようだが、他の警官を手招きした。女性の警察官だった。 「君、少し奥さんに説明してあげて」  彼女は沙弓に言った。 「こちらのお宅からは、違法なものは何も見つかってません」  一番聞きたかった事を伝えられて、沙弓はほっとした。しかし、それと同時に疑問も湧き上がってきた。 「あの、主人はどこで、その……覚せい剤を使っていたのでしょう?」 「それは、その、まだ捜査中です」  沙弓は母の待つ車に戻って、立ち去る警察官らを見送った。  母から啓太を受け取って、沙弓はリビングの片隅に座り込んだ。そこには、まだ開封されてないベビー用品が、ベビーベッドに積まれていた。ベビーベッドはまだビニールの梱包が解かれていないままだった。表面にはうっすらと埃がかぶっている。  絶句する母の気配を感じ、沙弓は泣き崩れた。啓太が驚いてびくりと身を震わせ、泣き出した。沙弓は啓太の鳴き声すらかき消す勢いで、叫ぶように嗚咽を上げ続けた。  これらのベビー用品は、沙弓が入院の直前に急いで買い求めて揃えたものだ。自分の目で確かめて買いたかったから、体に無理をかけてしまった。すぐにお腹の張りがきつくなって、緊急入院してしまったが。  この家に帰ってきてはっきりとわかったことがある。  茂はここに住んでいなかった。少なくとも、沙弓が入院してすぐ出ていったのだろう。  そして、我が子の帰宅を迎えてくれる父親はここにはいなかった。  沙弓は涙と鼻水をぬぐうこともせずに、しゃくりあげながら胸元を開けて、啓太にお乳を与え始めた。啓太はすぐに泣きやみ、お乳を飲み始めた。沙弓は「あうっ、あうっ」とむせび泣き続け、頬やら首筋やら、乳房にまで涙と鼻水が垂れ続けた。  啓太が乳首を離してうとうとし始めた。沙弓は最近やっと上手になったげっぷをさせるために、啓太を縦抱きにした。まだ首が持たない啓太が、沙弓の涙でぬれた首筋に、くてっと小さなほっぺたを張り付けた。 ふと気づくと、母がてきぱきと動いている。ベビーベッドの梱包をはがして、紙おむつやおしり拭きを並べ始めていた。涙でかすんだ視界で、母の頬も涙で濡れているのが分かった。声も立てずに泣きながら、娘のために動いてくれている。 「ごめんねぇ、お母さんごめんねぇ。こんな、こんなことになって、あたし、親不孝だよねぇ」  母は、手は止めずに肌着やガーゼを開封しながら沙弓の顔を見て、笑い出した。 「あんたの顔、ちょっとすごいけど」 「え?」 「親不孝なんかじゃないよ。こんな立派な孫を授けてくれたんだから。あんたは孝行娘だよ」  母の言葉に、沙弓はまた涙が零れた。  その日から、沙弓は大忙しだった。育児はもちろん、数か月ほったらかしにされた家の片づけなど、入院中になまった身体をフル回転させていた。数時間も寝る暇が無かったが、苦痛に感じない。後々、この頃を振り返ったが、ストレスが突き抜けすぎて、疲労を感じる神経が麻痺していたんじゃないかと思えた。  夫の存在は心から締め出して毎日を過ごしていた。ただ、空っぽの靴箱や、夫の私物の消えた部屋は見ないように努めていた。  啓太と二人だけの家の中、一歩も家から出ずに過ごし続けた。食材やオムツなどの衛生用品はスーパーの宅配サービスを利用した。テレビではステイホームが呼びかけられ続けている。外出できないつらさなんて、沙弓は微塵も感じなかった。むしろ外が怖い。この家の、この部屋で、啓太と自分の世界に二人だけしかいないように感じると、不安が幾分和らいだ。  しかし、そんな生活も1週間たった頃には現実に引き戻す連絡が、沙弓の電話に入ってきた。  沙弓は電話に「○○法律事務所」と表示されているのを見て、震えながら通話を押した。  弁護士から電話のあった翌日、沙弓は茂が拘留されている警察署に面会に訪れた。啓太も連れていくよう弁護士に言われたが、断固拒否した。啓太を犯罪者のいる場所に連れていくなんて、そんな提案を自分にしてくる相手に、沙弓は強い不信感を募らせた。啓太は自分の両親に預けて、当の弁護士の同行もきっぱりと断った。  地元の警察署の建物に入るのは初めてだった。当たり前だが警察官が多く立ち働いており、それ以外の訪問者は、沙弓も含めて何らかの問題を抱えた人々だった。沙弓は受付に案内されて面会申込書に記入し、呼び出されるまで待合室で待つよう指示された。  人気が無く、やけに明るい照明の並ぶ廊下の両側に飾り気のないドアが並んでいた。沙弓は「第2待合室」と書かれたドアを開けて、事務用の椅子と机だけあるその場所で待つことになった。  暗くて寂しいところだった。ここに啓太を連れて行けだなんて、あの弁護士は何考えているんだろう。沙弓は、昨日電話連絡してきた弁護士に対する怒りが、再び込み上げてきた。待合室内にある壁掛けの内線電話が鳴った。受話器を受けると、面会室へ入るよう指示があり、沙弓はいったん廊下に出て面会室に向かった。  廊下では、今面会を済ませた様子の中年の男女2人とすれ違った。お互いに押し黙ったまま、目線も会釈も交わさなかった。  面会室を開けると。正面のアクリル板越しに、茂が座っているのが見えた。沙弓の姿を見ると立ち上がってアクリル板に身を乗り出した。 「沙弓!」  久しぶりに見る夫の姿だった。やつれているかと思いきや、以前より太っており、髪も髯も伸びて、ひどくみすぼらしく見えた。 「沙弓、すまない。本当にすまない」  茂の第一声は、沙弓に対する謝罪だった。意外な茂の態度に、沙弓は胸に熱いものが込み上げてきた。 「茂……」  アクリル板越しに茂の手に触れた。病院で会った時以来だった。いや、その前も沙弓はずっと入院していたから、殆ど2か月ぶり以上だった。妊娠中も夫は仕事や出張で不在が多く、こんな近距離で向かい合って話すなんて、なんだか数年ぶりのような気がした。 「茂、本当なの? 覚せい剤使ってたって。嘘でしょう?」  沙弓は縋るように問いただした。こんな責めるようなこと言うより、茂の体調を心配すべきだとすぐに思い直し、聞き直した。 「あ、それより体の調子は大丈夫なの? ごはんちゃんと食べてる?」 「ああ、俺は大丈夫だ。お前こそ、出産後間もないのに体調は大丈夫か? 子供は大丈夫なのか?」  茂が初めて父親らしい言葉をかけてくれたことに、沙弓は感動で涙をぽろぽろこぼし始めた。 「私も啓太も元気だよ。茂……なんでこんなことになったの?」 「啓太っていうのか、いい名前だな。早く会いたいよ。沙弓、苦労かけてすまない」 「私、私、こんなことになって頭がおかしくなりそうだよ。もうどうなってるの?」 「沙弓、つらいだろうけどしっかりして欲しい。俺も、子供も、お前が頼りなんだ」  茂が優しい声で沙弓に励ましの言葉をかける。茂自身もつらい状況なのにと思うと、沙弓は涙を拭って頷いた。 「そういえば、家から茂の物が無くなっているけど、私の入院中はどこにいたの?」  沙弓の質問に、茂の表情が強張った。直前まで沙弓を気遣う優しい態度だった夫が、見慣れた冷たい傲慢な様子に変わった。 「ちっ」  横を向いて舌打ちし、両手で顔を覆った。 「茂?」 「頼むよ。俺、へとへとなんだ。お前がそんなんじゃ、俺もうお終いだよ」  茂の声がすすり泣きに変わっていった。沙弓は夫の悲壮な姿を初めて目にして動揺した。 「あ、ごめんね。私いない間に何がどうなっているのかわからなくて。ねえ、元気出して、しっかりして、茂」 「ああ、お前だけが頼りなんだよ。本当に頼むよ……」  すすり泣く茂の様子に、沙弓は途方に暮れた。こんなに弱っている夫を前に、沙弓も涙が止まらなかった。  面会室内にいる係りの者が、面会時間の終了を告げ、茂は立ち上がった。泣き顔を隠すように手で覆ったまま、茂は沙弓に向かって頭を下げた。 「沙弓、本当にすまない。また会いに来てくれよ」 「うん、わかった。茂、体を大事にしてね」  沙弓は丸まった茂の後姿を見送ってから、面会室から出た。  警察署を後にした沙弓は、来て良かったと感じていた。以前、救急室で会った夫は、まるで赤の他人のように見えたが、今日の様子は反省して、沙弓にあんなに温かい言葉をかけてくれた。  出産後、孤独に育児に明け暮れていた沙弓は、茂に対するわだかまりがほぐれて、胸に温かいものが満ちてくるのを感じた。夫が自分を頼りにしていることを思い、しっかりしなくてはと、沙弓は自分に言い聞かせた。  その夜、例の弁護士から電話が入った。 「奥さん、茂さんとお話し出来ましたか?」 「はい、久しぶりに会えて良かったです」 「そうですか。彼、奥さんとお子さんのことを、とても心配しているんですよ」 「ええ……。あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど……」  沙弓は、茂の事故の状況が気になっていた。そして、家にいない間何処にいたのかも、ちゃんと聞けてなかった。弁護士なら何か知っているかと思って尋ねてみた。 「茂は、何処で事故を起こしたんですか? 車は今どうなってます? あと、茂の持ち物が自宅に無いので、何処にあるのかも私、知らないんです」 「……茂さんから何も聞いていないんですか?」  快活に話していた弁護士の言葉が、急に歯切れが悪くなった。沙弓は面会室での茂との会話を思い出していたが、そこについては何も答えは無かったはず。今思うと、茂は答えをはぐらかしていたのではなかったか。 「はい、聞いたんですけど……」 「車のことは警察が保管してますよ。茂さんの私物については私からは何とも言えません」 「言えない? どういうことですか?」 「ああ、捜査上の問題が在るようで」 「捜査上……。そうですか。あの、茂はこれからどうなるんでしょう」  やはり、覚せい剤ともなると、簡単にはすまないのだろうか。 「奥さん、茂さんはこれから自分の犯した罪を反省して、更生していかなければなりません。それには、奥さんのお力がぜひ必要になります」 「私の?」 「はい。生まれたばかりのお子さんの為にも、父親である茂さんの保釈に向けて、奥さんの役割が大変重要となります」 「ほ、保釈?」  沙弓は、驚きのあまり、声が裏返ってしまった。弁護士はその後も『保釈』について説明を始めたが、沙弓には全然理解が追い付かない。 「あの、赤ちゃんがいるので、今日はこれで……」  啓太が空腹で泣き出したので、電話を打ち切ろうとしても、弁護士は沙弓に食い下がってくる。 「奥さん、茂さんはお子さんに会いたがってますよ、赤ちゃんの為にも」 「茂は、この子の出産日に覚せい剤をやってたんですよね!」  思わず大声で言い返してしまった。啓太が沙弓の声に反応して、一瞬泣き止み、手をびくくっと震わせた。 「私は茂がどこで何をしていたのか知りたいんです。そこはっきりさせるべきでしょう! あなたも茂も何も説明しないで、私に何をやれと言うんですか! この子の為と言いながら一方的に自分の都合ばっかり、いい加減にしてください!」  ぷつっと通話を打ち切って、沙弓は啓太の授乳を始めた。無心におっぱいを飲む啓太の顔をじっと見つめる。頬がふっくらしてきた。飲む量も増えて、授乳間隔が少し伸びたようだ。目も少し見えるようになったのか、沙弓の顔をじっと見つめ返すようになった。  沙弓は微笑みかけた。思えば、この子にはずっと泣き顔ばっかり向けていた。 「だめね~。お母さんは弱虫だね~」  沙弓は急に目の前が開けたような気がした。そうだ、何かがずっと引っかかっていた。茂の態度の変化に心を奪われていたが、あれは変だ、おかしかった。何故、何も疑問に感じなかったのだろう。覚せい剤という言葉や、留置場という異空間の雰囲気に飲まれて、何故か悲劇のヒロインのような感覚に捕らわれてしまった。  茂も弁護士も、何一つ沙弓に説明していない。反省などと言っているが、『何』の反省なのか? もちろん麻薬に手を染めたことについてだろうが、茂と麻薬がいったいいつ結びついたのか? 何もわからないまま彼らの言うとおりにしていいのだろうか?  沙弓は考えながら啓太を抱き替えて、もう片方の乳房に吸い付かせた。  自分には、重い責任がある。母親としての責任だ。これは何よりも重い。自分の感情や、大人の都合に啓太が振り回されてはいけない。どんなことがあっても、啓太の立場になって考えていかなければならない。沙弓は自分に向かって呟いた。 「泣いてばかりじゃダメだ……」  この先、茂や、茂の弁護士、そして警察とも対応を迫られるだろう。何も知らないでは済まない。ちゃんと調べて、ちゃんと知って、しっかり納得するまでは、絶対に流されないようにしようと、強く自分に言い聞かせた。  あれから、沙弓はネットで、市役所の無料の弁護士相談を申し込んだ。幸い空きがあるとかで、次の週には相談を受けてもらえることになった。 当日、市役所の受付で申込用紙を記入し、まだ時間があることを確認して授乳室に向かった。相談中に啓太が泣き出さないように先に授乳を済ませておきたかったのだ。  授乳を済ませてお腹いっぱいになった啓太をスリングの中で寝かしつけ、これから相談する内容をメモを見ながらおさらいした。  まず第一に、夫の犯罪によって、自分と啓太はどんな立場におかれるのか。次に、これから先、夫はどうなるのかを、知っておきたかった。相談内容は事前に提出しているのだが、聞きたいことが多すぎて、頭の中がごちゃごちゃしてしまい、ちゃんと相手に伝わる内容になってるか不安だった。  待合室は、他の手続きに必要な窓口と合同になっていて、他にも人がいた。壁掛けの呼び出し表示板を見ると、沙弓の呼出し番号は「次呼び出し」になっていた。しばらくすると、相談室から、先客が退出してきた。年配の女性が俯きながら出ていった。沙弓は、既視感を覚えた。そうだ、ここは留置所の待合室に似ている。清潔な雰囲気の装飾や、明るい照明、窓口から聞こえるきびきびとした職員の話し声はまるで違う。しかし、この相談室に入るということは、何らかの問題を抱えている人々だ。自分は、いつの間にか、そうした人々の側にいる。  沙弓は、自分は何も悪いことしていないのに、こんな自虐的な想いが湧き上がってくることが悲しかった。  相談室に入ると、中年の男性弁護士が迎え入れてくれた。彼は自己紹介をし、事前に提出した相談内容について沙弓に確認してきた。控えめで優しい口調だったので、沙弓は少し落ち着いて話せた。状況を説明した沙弓に対して、弁護士は、家族の一人が犯罪行為をしたからと言って、他の家族が法的に何らかの責を負うことは無いと説明した。  しかし、犯罪の性質上、賠償や更生について家族も無関係ではいられない場合もある、とも言われた。 「さぞかしご心配でしょうけど、覚せい剤は犯罪としては決して軽くはないです。状況によっては重い量刑が出ることも覚悟した方がいいでしょう。まずは旦那さんの弁護士とよく相談することも必要だと思われます。」  沙弓は、夫の弁護士にあまりいい印象が無く、表情が曇った。 「その人は、聞いても答えてくれないんです。保釈の話ばっかりで」  沙弓は夫の弁護士が信用出来なくて、この無料弁護士相談に来たのだ。その気持ちも正直に伝えた。  弁護士が慎重に話し出した。 「旦那さんの弁護士ですから、旦那さんにとって不利なことは、例え奥さんにでも伝えないことはあります。しかし、保釈の際に奥さんが身元引受人になるのなら、何も知らないでは難しいでしょう」 「私が、身元引受人?」 「保釈は裁判所が決めることですが、申請するのは、本人か、身元引受人になる家族の場合が、殆どです」 「はあ……」 「しかし、奥さんの場合は、生まれたばかりのお子さんがいるという特殊な状況ですよね」  沙弓は、胸元ですやすや寝息を立てる啓太を見やった。 「旦那さんへの支援と、お子さんを守ることの、どちらも必要でしょうけど、一人で抱え込まないようにして下さい。公的サポートのリーフレットをいくつか用意しておきますので、参考になさってください。ご自身の心身の健康状態を守ることもお忘れなく」  相談時間も終了近くに、弁護士から思いがけなく労わりの言葉がかけられた。沙弓は丁寧に礼を述べて、待合室に退出し、弁護士から言付かった職員から、複数のリーフレットを受け取った。  リーフレットの多くは、児童相談所や母子センターなど、DV被害者の救済関連のものが多かった。先刻の弁護士が何を危惧しているか、メッセージが込められてるような気がした。以前の沙弓なら、余計なお世話と憤るところだが、予感めいたものを覚え、持ち帰って大事に保管することにした。  やはり、本人からしっかりと状況を聞くべきだろう。沙弓は今回は冷静に対話しようと決心した。最初に来たときは、惨めさで打ちのめされて、ただ泣きぬれに来ただけだったような気がする。今日は、面会手続きや、衣服と現金の差し入れを規定通りに準備できた。  面会室に入ると、茂が座っていた。沙弓を見ると、軽くうなずいた。 「茂、体調はどう? ごはん食べれてる?」  沙弓は穏やかに尋ねた。茂は沙弓の顔をしげしげと見つめて、やがて俯いた。 「お前、俺を軽蔑してるんだろうな」  茂が自虐的に言った。以前の沙弓だったら、そんな風に茂に思わせたことを、すぐに謝るところだった。しかし、沙弓は、茂とのこうした会話の流れが、夫に根拠のない優越性を持たせていたことに、やっと気付いた。 「逆の立場だったら、あなたどう思う?」 「逆?」 「私が、家庭をほったらかして麻薬に溺れて、事故って逮捕されたら、あなたそれをどう思う?」  茂は顔を挙げてもう一度沙弓を見つめた。 「そりゃ……。いや、でもな……」  しどろもどろになる茂の返事を遮って沙弓は言った。 「私は警察じゃないわ、あなたの妻よ。最低限のことは教えてくれないと、茂のことどう思っていいかもわからないよ」 「最低限って、何が?」  茂は、分が悪いことを察したのか、ふてくされた様子だ。 「まず、私物は何処にあるの? 家にいない間何処に住んでいたの? 何故、お義母さんに、私のお産のこと黙ってたの?」  沙弓は一息に質問を投げつけて、茂の返答を待った。茂は、沙弓の視線を避けるように俯き続けていた。 「荷物のことは俺の問題だから、保釈された後でちゃんと自分で……」  茂は言いながら、沙弓の顔を見たが、言葉が途切れた。妻の強い視線が、刺すように自分に注がれているのに気づいたのだ。沙弓は茂から視線を逸らさずに、沈黙している。 「沙弓、お前、弁護士から何か聞いたのか?」  茂が探るように聞いてきた。また、話を逸らそうとしていると沙弓は怒りが込み上げてきたが、冷静になれと自分に言い聞かせ続けた。 「おい、何とか言ったらどうだ!」  ああ、夫は何も変わってはいない。反省も謝罪も何も無い。ただただ自分の都合だけ、沙弓にも我が子にも気持ちを向けるつもりはないのだろうか。沙弓は言った。 「何時から覚せい剤をやってたの?」  茂はひゅっと黙り込んだ。おそらく、逮捕されて以来何度も問い詰められたセリフだろう。沙弓の口から出るとは思ってもいなかったのか、茂は真っ青になった。 「私と結婚する前? 結婚した後? 妊娠中は……やってたのよね。茂、私とちゃんと話をする気はある? ちゃんと話をする義務が自分にあるとは思わないの?」 「俺を責めてばかりだな……。お前、それでも俺の妻か」  相変わらずの、高圧的な態度に、沙弓は怒りを通り越してあきれ返った。何一つ話し合いに応じない夫とは、会話するだけ無駄なのか。しかも、何故か相手が悪いかのように茂の脳内では変換されているらしい。この人って、馬鹿なの? 「え。茂、あなた……。あははっ」  いきなり笑い出した沙弓に、茂はきょとんとした。 「あ~笑うわ~。あなた、責められる要素が満載だけど、それ自覚無いの? あははっ」  茂は、笑い転げる沙弓の様子に、最初はあっけにとられていたが、徐々に顔を真っ赤にした。怒り心頭といった様子だ。 「お前、絶対に許さないからな、俺にそんな態度……」  茂が怒鳴りながら立ち上がった時、面会室内に居た警察官が軽く咳ばらいをした。茂がびくっと動きを止める。沙弓も茂の気迫に笑いを納めた。 「あ、いや、そうだな。お前の言うとおりだ。俺はちゃんと反省して……」  しどろもどろになる夫を、沙弓は怪訝そうに見つめた。夫の顔は青ざめていた。 「あ、子供に会いたいよ。俺はまだ我が子に会ってない。保釈してもらえたら、ちゃんと父親らしいことするつもりだ」  茂は、急に、猫なで声で訴え始めた。うつろな瞳で、口元に貼り付けたような薄笑いを浮かべている。  沙弓は体中から血の気が引くのを感じた。自己中心的で、己の保身しか考えられない夫の本性を、垣間見た思いだった。 「そ、そう? 今日は帰るね、じゃあ!」  沙弓は慌てて面会室から出ていった。最初の面会の時に同じことを言われたが、その時は感動してうれし涙を流したりした。あの時の温かい気持ちが懐かしかった。  警察署を出て、スマホに着信が入っているのに気が付いた。家で啓太と留守番してくれている母からだった。電話すると、母から思わぬ来客があり、困り果てているとのことだった。  来客は茂の両親だった。沙弓が帰宅すると、すぐに泣いている啓太を抱っこした沙弓の母が出迎えた。 「ね、あちらの親御さん、あんたのおめでたのこと知らなかったって言ってるけど……」 「茂が嘘ついてたのよ!」  沙弓は啓太を抱き上げると、義両親の待つリビングに入った。 「ご無沙汰してます。あの、先におっぱいあげてくるので、少し待ってて下さい」 「もちろんですよ。お腹すかしてるだろうしね」  茂の父親が、愛想よく応じてくれた。茂の父は先代から受け継いだ不動産会社を経営しており、茂はそこの社員だった。茂は次期社長として、父親の片腕として働いていた。沙弓にとっては、夫の雇い主でもあり、何かと夫を援助してくれる存在だった。  その隣に座る義母は、沙弓とは約1年ぶりだった。最後に会った時は、確か沙弓を実家に呼びつけて、離婚届を手渡された時だった。あの時の惨めな気持ちが忘れられない。沙弓は義母とは視線を合わさないように俯きながら、リビングのテーブルを挟んで、向かい合って座った。啓太は授乳を済ませて、沙弓の母が手慣れた様子で寝かしつけてくれている。 「随分と、お母さんにお世話させてるのね」  義母が、沙弓の母の様子を見てなじるように言い放った。 「おい、それもこれも茂のせいだろ、こちらは礼を言う立場だぞ」  さすがに、義父にたしなめられて、義母は渋い顔をして黙り込んだ。 「今日は、どういった御用でしょうか?」  沙弓は、どうしようもなく強張る表情と尖る声色を隠すことも出来ず、義両親に問いかけた。義両親は、これまでのおどおどしていた嫁の雰囲気が変わっていることに気付き、少し押し黙った。 「用って……」  苦々しく呟いた義母を制して、義父がばっと立ち上がった。テーブルを周りこんで、沙弓の前に正座をすると頭を下げた。 「このたびは、茂がとんでもないことをしでかしてしまい、本当に申し訳ない!」  沙弓は慌てて、椅子から床に滑り降りて、義父の傍らに屈み込んだ。 「お義父さん、そんな、やめてください。お義父さんが謝ることじゃありません!」  どこか芝居じみた態度に、沙弓は口では気遣いながら、気持ちは冷えていった。何故なら、義父が土下座している傍で、義母は座ったままそっぽを向いているのだ。義両親が心底詫びているとは思えなかった。  それでも、どうにか義父の頭を上げさせようと、沙弓は今日会った茂の話をした。 「私、今日茂さんに面会してきたんです。やっぱりつらそうでしたよ。お二人はお会いしてますか?」 「いや、どうしても気持ちの整理がつかなくて、まだ会ってないんだ。しかし、弁護士を通じてやり取りはしてるよ」  さらりと言う義父に、沙弓はさすがに茂の憔悴した様子が思い出されて言った。 「会いに行ってあげてください。茂さんの為にも」  沙弓がそう言うと、義母が顔を真っ赤にして喚きだした。 「なんで、あんたにそんなこと言われなくちゃいけないのよ! 大体ね、あんたがしっかりしてないから茂があんな女に引っかかるんじゃないの! 自分のこと棚に上げて偉そうに!」  沙弓は硬直した。今、義母はなんて言った? 「ちょっと、山中さん。あんな女って何のことです? 茂さん浮気してたんですか?」  沙弓の母が、茫然自失の娘の代わりに尋ねた。  義母は、沙弓をやり込めたことに愉悦を感じたのか、次々と喋りだした。 「茂はね、役立たずのあんたに嫌気がさしていたのよ。悪い女に誘われて、犯罪に巻き込まれたんだから! あんた、妻として恥ずかしくないの?」 「おい、おい、お前、やめないか!」  義父が制するのも聞かずに、興奮状態で喋り続けていた。 「さっさと茂と別れてちょうだい! こんな女と結婚させたのがそもそもの間違いでしょ!」 「おんぎゃーっ」  啓太が驚いて鳴き声をあげた。  沙弓は青ざめた顔のまま、微動だにしない。啓太の鳴き声すら耳に入っていなかった。 「お前、いい加減にしろ! 沙弓さん、今日はもうお暇しようかな、また後日ね」  義父が慌てて帰ろうとしたが、義母はまだ言い足りないのか沙弓に噛みついてくる。 「なにもかもあんたのせいだからね! どうしてくれるのよ!」 「山中さん……。沙弓に何の落ち度があるんです?」  沙弓の母が、沙弓と義母の間に割って入った。 「息子さんのことで、気が動転なさってるとは思いますが、言っていいことと悪いことがありますよ」 「そうだぞ、すいません本当に。お前、弁護士さんに言われたこと忘れたのか?」  嫁の母親の怒りに気づいたのか、それとも夫の言葉がやっと耳に入ったのか、ようやく義母は口を閉じた。  沙弓はふらふらと立ち上がって、泣いている啓太をあやしにリビングの奥のベビーベッドの傍らに座り込んだ。帰っていく義両親に背を向けたまま、振り向かなかった。  茂の両親は、息子夫婦の家を出て、待たせていたタクシーに乗り込んだ。 「何てことしてくれたんだ。あれほど弁護士から注意されてただろう。茂の相手のことは沙弓さんに教えるなって」  夫に苦々しく言われて、茂の母親はますますふてくされた。 「だって、おかしいじゃありませんか。茂だけが悪いみたいに……あの人に何の責任もないっていうの?」 「沙弓さんは被害者だろ。これで茂の保釈を沙弓さんが断ったらお前のせいだぞ」 「はあっ? 嫁のくせに夫を助けないって、ありえないでしょ」 「おいおい、法律的には茂が100%悪いんだぞ。沙弓さんが離婚しようって気になったらどうするんだ。こっちは慰謝料も養育費も払わなきゃならんし、茂が執行猶予付きで出られても、俺たちが身元引受人になるんだぞ」  夫のうんざりした口調に、茂の母親は涙が滲んできた。夫が茂の保釈や、執行猶予期間の面倒や責任について逃げ腰になっていることが情けなかった。そうした全てを嫁に押し付けるために、白々しく頭を下げたり、猫なで声でいたわりの言葉をかけたりしたのだ。  半年ほど前に、茂からは嫁とは離婚前提の別居中だと説明されていた。子供も流産していたと聞かされて、息子の決断を快く受け入れた。嫁が自宅を出ていくまで、マンションを借りるための費用を夫に出してもらったのだった。しかし、実際はそのマンションに茂は愛人と住んでいたわけだったが。  こちらが頭金を出した2世帯住宅に、沙弓が居座っていることは腹立たしくもあったが、あと数週間で追い出せるのならと我慢した。あの嫁との離婚が成立したら、自分だけが先に茂と同居するのもいいなとも思っていたのだ。  あの嫁……沙弓のことは最初から気に入らなかった。大学時代からの付き合いとのことだったが、結婚予定にもかかわらず就職し、結婚後も働き続けていたのだ。茂の面倒をちゃんと見るつもりもないし、しかも子供も作らず、自由に暮らしている。一度、うちの会社に転職するよう提案したが、沙弓にあっさりと断られた。あの時は怒りに震えた。茂によると、沙弓はそこそこの給料を稼いでおり、不自由していないらしい。社長夫人として、専業主婦の道しか選べなかった自分とは、生き方も考え方も違うのだろう。  傍らの夫がため息交じりに言った。 「しかしなあ、子供が生まれたのは本当に良かったよ。茂はもうあんなことになったし、跡継ぎをどうにかしないとな」 「あなた、茂を見捨てるっていうんですか?」 「おいおい、そんなことは言ってないだろ。だが、あんな事しでかした者に会社を継がせるわけにいくか? 社員に対して責任があるんだぞ」 「だからって……」  夫の責任感は、会社と家族を天秤にかけて成り立っている。それはどうしようもないのだろうが、その冷静さにどうしても失望感を覚えてしまうのだった。  茂は浮気していた。  その事実を沙弓は妙に納得出来た。というか、それを思いつかなかった自分に呆れた。  多分、自分が入院している間は浮気相手と住んでいたのだろう。  覚せい剤が自宅で見つからなくても、警察があっさりと帰っていった理由もわかった。茂は浮気相手と住んでいる家で、薬を使っていたのだ。  警察も、弁護士も、義両親もそれを知っていた。知らなかったのは沙弓だけだ。 「呆れたわね~。あの人たち何しに来たのよ。ちょっと塩蒔いてくるわ」  沙弓の母親が玄関先に、節分の豆まきの迫力で塩を蒔きまくった。 「どんな人なのかな?」  沙弓が呟いた。 「え? 知ってどうするのよ」 「知りたいよ。ううん、絶対教えてもらうわ。もう、騙されたくないもの」 「……あのね、実はね、私も茂さんのこと怪しいと思ってたのよ」  母が言いにくそうに話し出した。 「あんたの出産日に、ほら、連絡つかないって言ってたじゃない。それで茂さんの職場に電話したら、交通事故起こしたって聞いてさ。あんたの身体に障りがあったらと思って、つい嘘ついちゃったけど……。でも、運転していたのは別の人で、けがも軽いそうですって言われて。その時はああ良かったぐらいにしか思わなくてね。でも、自分の車を運転させたり、この家に帰ってきていた気配がなかったりして、やっぱりって思ったわ」 「お母さん、さすがだね。あたしってホントぼんやりだね」  沙弓が素直に感心している様子を、母は痛々しそうに見返した。  翌日、茂の弁護士から、茂が拘置所に移されたことを知らされた。  相変わらず保釈手続きのことしか言ってこない弁護士に、沙弓は何を聞いても無駄だと感じ、「まだ考え中です」と言って躱すことにした。  前日の義両親とのやりとりを、弁護士は知らないはずがないのに、茂の浮気のことを沙弓に説明しようとしない。こんな騙されたままで、茂が本当に保釈されて、果たして一緒にこの家でやっていけるのか。沙弓は考えれば考えるほど気が滅入ってきた。  それに、茂の浮気相手のことも調べたい。あの弁護士や義両親からは聞けそうにないし。 「あ、そうだ。車……」  母が「運転していたのは別人」と聞いたと言っていた。沙弓は夫の車の保険会社に電話した。担当者から、事故後に一旦警察に押収された車両は、すでに引き取って修理済みとのことだった。ガードレールとの物損事故で、保険の範囲内で対応できるそうだ。  沙弓は不思議に思った。 「保険が効くってことですか? だって、運転していたのは主人じゃないし」 「ああ、運転手さんのほうも、山中さんが以前に保険に入れてたんですよ。ドライバー特約というやつですけど」 「ドライバー?」 「他人の車を運転するときの保険ですね。送迎を依頼されてたそうです。あの、ご主人のことですが、その、お車の引き取りについてなんですが……」 「あ、私が引き取ります。あの、その保険の内容も念のため全部もらいたいのですが。その、ドライバー特約の人の内容も全部」 「承知しました。都合のいい時間にすぐ搬送させていただきますので」  沙弓は、車より保険の内容が知りたくて、今日にでもと頼んだ。担当者は肩の荷が下りたのか、あきらかにほっとした様子で、今すぐ運んでくると言った。  これで、茂の浮気相手のことが判明する。そして、その後は……どうする?  沙弓はうつろな瞳でリビングを見回した。出産後の沙弓の世界は、ほぼこのリビングとキッチン、そしてお風呂場や洗濯室が主だった。リビングの端にベビーベッドを置いて、沙弓は傍らのソファーで寝起きしている。啓太と二人きりのこの世界は、今日は放置された洗濯物で溢れていた。昨日から、家事をほったらかして、茂の浮気相手のことだけ考えていた。  今日はまだ啓太をお風呂にも入れていない。今日は啓太に優しく話しかけた記憶が無い。  沙弓は自分の弱さが情けなくて、泣けてきた。茂が浮気してたからなんだというのだ。もう、そんなことぐらいで潰れている場合じゃない。  ベビーベッドですやすやと眠る啓太を見下ろした。ぷっくりとしたほっぺが可愛い。そういえば、自分と茂のどっちに似ているだろうか。もし、茂にそっくりに育ったとしても、可愛いと思えるのだろうか?  沙弓はそんな不安が込み上げること自体がつらかった。啓太に何の罪もないのに。  私には、母親としての責任がある。これは父親が犯罪者だろうが、浮気者だろうが変わらない。茂の更生や、夫婦の行く末も、一時の感情で選択を間違わないようにしよう。どんなに苦しくても、啓太の立場になって考えていく必要があるのだ。 「そうだけど、そうなんだけど、そんなに強くなれないよ。泣けてくるよ……」  涙でぐしゃぐしゃの顔で、鼻をすすりながら沙弓はソファに横になった。  まずは眠ろう。啓太が寝ているうちに少しでも。次の授乳の前に、啓太をお風呂に入れて、おっぱいもあげて。そして、啓太に少しの不安も移さないように笑顔を向けるのだ。優しく寝かしつけて、今度こそ洗濯物を片付けよう。ああ、ゴミもまとめなきゃ、そして……その他のことはまた明日考えればいい。  明日も、明後日も、考えることはたくさんある。茂のこと、浮気相手のこと、自分が決めるべきこと。考えなくていい日まで、やっていくしかない。 眠りに落ちながら、次の目覚めまでの休息を沙弓は自分自身に許した。 ―終―
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