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第一章
先刻、会ったばかりの年下の無愛想なイケメンに押し倒されてハッとなる。光沢のある布張りのグリーンのソファに横たわる寧々の長い髪が扇状にザーッと流れるように広がった。四方を森に囲まれた古めかしい洋館はシンとしている。
「おまえ、どうやって、じぃさんを騙したんだよ?」
彼は、寧々を疑うように眉根をしかめながら尋ねる。どうやら、遺産を狙っていると思い込んでいるらしい。
「金目当てで、年寄りをたぶらかして殺そうとしたのか?」
ムカいた寧々は、彼を突き飛ばして部屋から飛び出していく。
「そんな変なことを言う為に、わざわざ呼び出したの? 馬鹿にしないでよ! 帰るわ」
「おい、待てよ。そっちは森だぞ!」
ヒリリとしたものが胸を締め付けている。叫びたいような何かを壊したいような投げやりな衝動が突き上げてきた。
薄闇の中、何かに躓いたようだ。身体のバランスを崩してヒヤッとした直後に地べたに胸と肩を打ち付けてしまった。
片方のパンブスが脱げて遠くに転がっている。青臭い草と泥に伏せたまま、歯の根をカタカタと鳴らす。うつ伏せの姿勢のまま無様に呻いた。
ザーッ。ザーッ。雨足は強くなる。三十四歳、独身、フリーター。惨めさが胸に溜まり続けている。
なぜ、こんなふうに自分は落ちぶれてしまったのだろう……。
☆
十二年前。
リクルートスーツ姿のまま大きな公園の木陰のベンチで物悲しい夕焼け雲を眺めながら唇を噛み締めていた。
オフィスビルが、まるで砂漠の蜃気楼のように感じられるほどの疎外感に苛まれ、やるせなくなり落ち込んでいる時、たまたま、目の前で苦しみもがく老人を助けたのだ。
その老人は、お洒落な服装をしており、お年の割りには背が高かった。
『おじぃさん、しっかりして下さい! 救急車を呼びましたよ』
後で分かったことだが、心臓に持病を抱えていた。驚いた事に、『椿薔薇コスメ』の創業者で会長の鈴木数馬だというではないか。
『わしは、妻も亡くして目も悪くなったし一人でペットボトルも開けられない。ヘルパーさんのような人が必要なんじゃ』
それが縁で会長の秘書になったのだ。三流の短大生の寧々には申し分のない就職先だった。
『のんびりやりたまえ。わしの話し相手がメインの仕事になるだろうね。どうか、よろしく頼むよ。わしか死んだ後も会社に残れるようにするよ』
寧々は、会長の血圧の測定を行い記録するところから始めた。彼が一代で築いた会社なのだ。重要な案件の決定権は会長が持っている。通常の秘書としての業務もやらなけれはならない事に気付いて、おおいに慌てた。
幸い、英語は得意だったので英文は何とかなったが、フランス語となるとお手上げだ。そういう時は他の秘書の女性に頼った。
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