第一章

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第一章

 先刻、会ったばかりの年下の無愛想なイケメンに押し倒されて三十路女子の羽生寧々の鼓動がトクンと上擦る。 (えっ、どういうこと?)  郊外にある西洋風の瀟洒な館のソファは光沢のある布張りのものだった。木枠や脚の部分は精緻な意匠で彩られており豪華だが古めかしい。ここの家具はヨーロッパのオークションで競り落としたものだと聞いている。  ランプシェードの灯りは黄色味を帯びており、部全体が、ぼんやりと煙っている。まるで古いシネマのように色褪せて見える。それでも、射抜くような強い眼差しと、彼が抱えている不満の濃度がハッキリと伝わってくる。  どうやら、寧々が彼の祖父の遺産を狙っていると思い込んでいるらしい。だからこそ、こんなふうに怖い顔つきで寧々を射抜いているのだろう。 (あたしは、そんな女じゃないわよ! 何なのよ。こいつは馬鹿なの!)  カッとなると同時に虚しさと怒りで胸が一杯になる。馬鹿にされるのは我慢ならない。衝動的に花瓶を握り締めると、半ば自棄クソになり相手の額を殴打していた。ダッと、そのまま洋館の外へと走り出していたのである。頭の中がとっ散らかっっている。無我夢中だった。 「おい、待てよ。そっちは山だぞ!」  鈴木蓮の不機嫌そうな低い声は背後から響いている。彼も、懐中電灯を持っていないらしい。お互いにどこにいるのかが分からなくなっている。ザーザー。ガサガサッ。重なり連なる繁みと大粒の雨と暗闇のせいで前がよく見えていない。ザーザー。  寧々は、ぬかるむ森を逃げ惑っていたが、鈴木蓮から逃げているのではない。覆いかぶさる人生から逃亡している。  枝葉が頬や手足に当たってヒリヒリする。どこまでも続く雑木林は暗い。本当に暗い。方角が分からずに木々の迷路を彷徨う。フラフラしていた。そして、不意に躓き、無様な格好で転んでドンッと胸を打ち付ける。それなのに、なぜか、不思議とリアルな痛みを感じない。  自分は空っぽになっている。とことん疲弊している。絶望と空腹の波に押し潰されそうになっている。頭の隅々まで真っ白になって壊れそうになっている。もう限界なのだと叫びたい……。  こみ上げるようにして熱い涙が目の奥から溢れているのだ。涙と雨と混ざり合ったものが、冷たい頬からスルンと流れ落ちている。 「ああ、情けない……」  三十四歳。独身。この七年間は親の借金を返すことに必死だった。もがき苦しみ悩んできたのだ。なぜ、こんなふうに落ちぶれてしまったのだろう……。             ☆  あれは、十二年前の十月の夕刻のことだった。寧々にとっては、思いがけない偶然の出会いだった。  就職活動をしても、なかなか決まらずに行き詰り悩みながらも、どうにかなるさと言い聞かせてベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲もうとしたところ、ふと、遊歩道の途中に蹲り胸を押さえている老人を見かけた。血相を変えて慌てて駆け寄り、どうなるのかとハラハラしながらも急いで救急車を呼ぶ。 『おじぃさん、しっかりして下さい。すぐに助けが来ますからね! やだ、お願い。死なないで!』  寧々は、泣きそうになりながら悶え苦しむ老人の手を握り続ける。救急車が来るまで懸命に励ました。そして、老人は何とか一命を取りとめたのだ。  後日、レクサスという高級車が寧々の一人暮らしのアパートの前で止まった。あの時の老人が寧々に礼を告げに来たのだ。老人の背後には綺麗な身なりの初老の執事が控えている。お茶でもどうぞと、寧々は老人を招き入れたのだが、ここから冴えない寧々の人生が大きく変わることになる。 『どうかね。羽生君、わしの個人秘書にならんかね?』  驚いた事に、その老人は椿薔薇コスメの創業者で会長だというではないか。さほど優秀でもない短大卒の寧々には申し分のない就職先だった。何一つ迷う事なく即答していた。そのままトントン拍子で会長の部下になったのはいいが、秘書に関する勉強を何もしていない。  上司の部屋の整理。スケジュール管理。接遇。電話応対。交際業務。会議やパーティーの準備など、色々やることがあるようで緊張していると会長がおっとりと笑った。
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