第一章

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第一章

 遠くの方で目覚まし時計が鳴っている。さっき寝ついたばかりなのにとため息をつき、手を伸ばして止めようとするが、なかなか身体が動かない。いつもなら職業上すぐに起き上がることができるのだが、今朝はきつかった。  それでも何とか目覚まし時計を止めて起き上がり、枕元に置いてある眼鏡をかけ、中瀬尊(なかせたける)はのろのろとベッドから出た。思わず「寒っ」という声が漏れ、身震いする。そういえば、昨日ちらっと見たニュースでこの秋一番の冷え込みになると言っていたな……。また今年もこの季節が来た。  トイレで用を済ませた尊は、シャワーを浴びに浴室へ向かう。昨夜は零時すぎに帰宅したあと眠気が勝って、風呂に入らずにベッドに直行だったのだ。熱いシャワーを浴びながら、職場ではこれからの季節温度差に気をつけるよう散々言っているのに自分がこれじゃだめだな、と苦笑する。  シャワーに時間をかけすぎた。尊は急いで髪を乾かして歯を磨き、身支度をする。特に髪をセットしたり香水をつけたりすることはない。職場では香水はご法度だし、容姿を気にかけるような職業でもない。ただ清潔であればいい。父親譲りの長身と端整な顔立ちなので、同僚にはもったいないなどとからかわれることもあるが、尊は全く意に介さない。  尊は、朝食は自宅では食べない。通勤途中のコンビニで調達し、自席で食べるのが日課になっている。朝食だけでなく昼食も職場で食べ、時には夕食もそこで食べる。自宅にはほとんど寝に帰ってくるだけだし酒もめったに呑まないので、冷蔵庫はたいてい空っぽだ。そんな生活に時折ふっと寂しさを覚えることもあるが、変えようとも思わない。尊にとっては、仕事をすることが心の支えになっているからだ。 「お兄ちゃん、行ってきます」  尊は兄にあいさつしてから通勤用のリュックを背負って玄関へ向かう。だが兄が返事することはない。彼の兄は、写真の中で無邪気に微笑んでいるだけだ。  単身者向けマンションのエントランスを出ると、十月の空は晴れ渡っているもののやはり風は冷たかった。このまま季節が進むのだろうか。寒いのは嫌だなと思いつつ、自転車置き場へ向かい、ロックを外す。尊は自転車で通勤している。  尊の住むマンションから職場までは、ゆるい坂道になっている。自転車に乗って行きは七分、帰りは五分の所要時間だ。逆でなくてよかったと尊はつくづく思う。もちろん、そのことを見越して決めた物件だ。勤務後の疲れきった身体で坂道を上るのは勘弁してほしい。  途中のコンビニで朝食を調達し、息を弾ませて坂道を登りきると尊の職場である神戸ひかり総合病院だ。二か月前の八月に三十一歳になった尊は、卒業したK大学の付属病院での研修期間を終えたあと、今年の四月からそこで心臓外科医として働いている。  出勤した尊は、ロッカールームで上着を脱いで白衣を羽織ったあと、医局の自席で引き継ぎ事項などを確認しながら朝食をとる。今朝もそうしようとコーヒーを自分で淹れていったんは椅子に座ったが、ふと思い立ち、席を立った。そのまま医局を出てエレベーターで屋上へ向かう。せっかく淹れたコーヒーだが、あとで温め直して飲めばいい。
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