第二章

4/4
前へ
/96ページ
次へ
 ナースステーションに断りを入れたのち、ドアをノックして室内に入る。面会時間の終わる午後八時から消灯の午後九時までの時間をひとりきりで過ごす将希の様子が気になり、尊は病室を訪れていた。日中は面会などで人の往来のあった小児科病棟も、さすがに午後八時半となると閑散としている。  尊は、できるだけ明るい口調を意識して声をかけた。 「将希くん、入るよ」  将希は室内にあるトイレから出てきたところだった。「大丈夫?」と声をかけながら、尊は将希に寄り添う。尊に気づいたことで、将希はとっさに点滴スタンドから手を離してそのまま歩き出そうとする。尊はスタンドを引き寄せてやった。 「点滴、忘れちゃう」  泣きそうな顔で将希はぽつりとつぶやく。初めての点滴に四苦八苦しているようだ。点滴がつながっているのを忘れて、つい動いてしまうのだろう。また、ホルター心電図検査で身体に心電計を取りつけているため、胸のあたりを常に気にしている。思った以上に繊細そうな少年だ。そして、ひとりで何でもこなそうとするようだ。 「ちょっとでも不安なことがあったら、ナースコール押したらいいからね」  将希は尊の助けを借りて、無事にベッドに横になった。尊はベッド脇の椅子に腰をかける。 「将希くん、歯磨きはした?」 「うん。お母さんが帰る前にした」 「そっか。バイタルチェック……お熱は測った?」  こくんと将希がうなずく。そして、わずかに眉を上げて尊に問うた。 「こんな時間に診察?」  昼間よりも口数の多い将希に、尊は少しほっとした。 「違うよ。将希くんと友達になりたくて、話をしたくて来たんだ」 「友達?」 「うん。患者さんとの意思疎通を密にすることによって、治療のパフォーマンスが上がるから」 「……よくわからない」 「あっ、ごめん。えっと……、患者さんと仲良くなって、そしたら治療もうまくいって……」  簡単な言葉で説明しようとするほど、尊はしどろもどろになる。そんな尊を見て将希はくすっと笑う。 「何となく、わかった」  くすくすと笑いながらも、将希は枕を触ったり頭の位置を変えたりしている。まだ違和感があるようだ。尊はあることを思いついた。確かあそこにいいものがあったはず。 「将希くん、ちょっと待ってて。五分で戻ってくるから」  尊はそう言い、将希の返事を待たずに病室を飛び出した。  廊下を速足で歩き、尊は医局のロッカーに向かう。ロッカーからバスタオルを取り出すと、バサッと広げてほこりをはたき、くんくんと匂いを嗅ぐ。置きっぱなしにしているものだったので匂いが気になったが、大丈夫そうで安心した。それを持って将希の病室へ戻る。 「お待たせ。これ、僕のだけどよかったら使ってみて。ちゃんと洗ってるものだから」  尊はバスタオルを適当に折りたたみ、将希の枕の下に敷いた。将希の顔がほころぶ。 「わあ。この高さ」 「明日お母さんが持ってきてくれるまで、今日はこれで我慢してな」 「うん。先生ありがとう」  また将希はくすくす笑う。笑うと少し幼く見える。 「おかしい? 僕の顔に何かついてる?」 「ううん、そうじゃなくて。本当に友達みたい」 「そう?」 「今、ちょっとだけ病気なのを忘れてたから」 「そうか……。今までつらかったんだね」  将希は笑っていた顔をゆがませた。 「うん……。ねえ先生、僕、頑張らなかったからお薬で治らなかったの? 頑張らなかったから、手術するの?」  すがるような表情で、将希は尊に問いかけてくる。  医師の尊にとって、病気になると薬を服用したり手術をしたりするのはごく当たり前のことだ。だから将希がこんなことを考えているとは思ってもみなかった。 「誰か、そんなこと言ったの?」 「お母さん、いつもお薬飲む時、『頑張って飲もうね』って言ってた。入院になった時、お母さん、悲しそうな顔してた。僕が頑張らなかったから……」  天井を眺めながら、ぽつりぽつりと将希がつぶやく。  尊は兄のことを思い出す。将希のことを考える時、どうしても年齢の近かった兄を思い出してしまう。闘病中はめったに弱音を吐かず、いつも前向きに治療に取り組んでいた兄。その姿を間近で見ていた尊は、頑張っている兄のことをかっこいいと思っていた。そして家族全員で兄の努力をたたえ、励ました。「頑張れ」という励ましの言葉が諸刃の剣だということを知ったのは、だいぶたってからだった。医師になった今、兄にかけたい言葉はあの時とは正反対のことだ。 「中瀬、先生……?」  将希が泣きそうな顔で尊のことを見つめていた。  尊は考えごとをする時、腕を組んで眉間にしわを寄せ、一点を見つめる癖がある。尊自身は無意識のうちにしている仕草だが、他人からは不機嫌そうに見えるようで、怒っていないのに怒っているようだと言われることが多い。  将希の言葉にハッと我に返った尊は、慌てて組んでいた腕をほどき、笑顔を作る。 「ごめん、将希くん。違うんだ」  尊は椅子を将希の方にぐっと寄せた。小学生の将希にもよくわかるように、慎重に言葉を選ぶ。 「あのね、将希くんは今までたくさんつらい思いをして、十分頑張ってきた。運動制限も食事制限もしんどかったよね。もちろん、身体もずっとしんどかったと思う。だからもうこれ以上頑張らなくていいんだ」 「僕、もう頑張らなくていいの……?」  将希の緊張がほぐれるのが、よくわかった。病気と診断された時から、いや体調に異変を感じた時から、不安で仕方がなかったのだ。十一歳の小さな身体で、ひとりで苦しみに堪えてきたのだ。 「うん。むしろ、これから頑張らなきゃいけないのは、僕の方だ」 「先生が?」 「そうだよ。これから検査結果を踏まえて術式を決定して、何度も何度もシミュレーションを重ねる必要があるけど。そうだなあ、将希くんの場合は……」  いつの間にか、将希は軽い寝息を立てて眠っていた。尊は目を細めて将希の寝顔をしばらく見つめた。 「おやすみ。将希くん」  尊は将希の布団をかけ直して点滴の落ち具合を確かめてから、そっと病室を出た。医局へ戻る前に屋上に立ち寄る。無性に星が見たい気分だった。  昼間陽の光が降り注いで暖かかった分、夜になると冷え込んでいた。澄んだ空気の中に、明石海峡大橋のライトアップがくっきりと見える。尊は明石海峡大橋に背を向けてフェンスにもたれかかって立ち、北の空を見上げて北斗七星を探した。  幼い頃、兄と見上げた夜空に浮かんでいた北斗七星。まだ兄は病気になる前だった。父親も母親もそこにいて、家族四人がそろっていた。流星群を家族で見にきていたのだ。兄は北斗七星の近くに、ひとまわり小さな北斗七星があると教えてくれた。おおぐま座とこぐま座のしっぽのななつ星だ。「僕と尊みたいだね」と言って、兄は笑った。星がひとつ流れるたびに「見た? 見た?」と兄と確認し合った。星が流れる時にテレビの効果音のように「シュッ」という音が聞こえないことを不思議に思って疑問を口にした尊は、ほかの家族に笑われた。笑われて不機嫌になった尊を、父親が肩車してくれた。家族四人での、大切な思い出だ。  今、北の空の低い位置に浮かぶ北斗七星。こぐまだった尊は、兄の年齢を追い越して大人になった。だが北斗七星はあの日のままに、今もそこにある。ギリシャ神話では大神ゼウスの妻の怒りを買ったために北の空を休むことなく回り続けるはめになったおおぐま座とこぐま座だが、尊にとっては八年しか一緒にいることのできなかった兄との数少ない思い出のひとつだ。いつの頃からか尊は兄に会いたくなると、夜空を見上げて北斗七星を探すようになった。 ――お兄ちゃん。新しく僕の担当になった将希くん、ちょっとお兄ちゃんに似てるかも。頑張り屋さんで寂しがり屋さんで。今なら僕もお兄ちゃんに言えるよ。お兄ちゃんはよく頑張った。十分、頑張った……。  星が瞬いたように感じたのは、尊の目に涙が浮かんだからだろうか。尊は涙がこぼれ落ちないよう、上を向いてまばたきを続けた。
/96ページ

最初のコメントを投稿しよう!

228人が本棚に入れています
本棚に追加