第三章

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 尊はまだかすかに痛む頬をさすりながら、売店で昼食を選んでいる。昼食をとったあとに、明日助手で入ることになっている手術の手技を練習するつもりだった。  昨日は売り切れていたホットドッグがまだ残っているのを見て、尊は嬉しくなった。カレー風味のキャベツ炒めが一緒に挟んであるものだ。カレーキャベツの挟まれたものしかホットドッグと認めていない尊は、すかさずカゴに入れた。  続けてツナマヨのおにぎりを手に取ろうとして、はたと思いとどまる。岡崎に見つかるとまた炭水化物祭りと言われかねない。しばらく悩んだ結果、尊はお惣菜のチキン南蛮をカゴに入れた。  医局へ戻ってドアを開けようとした時、ちょうど中から出てきた原田と鉢合わせた。尊の顔を見るなり原田はニヤニヤして中に向かって言う。 「ダンナが帰ってきたぞ」  さらに原田はすれ違いざまに尊の肩をたたいてささやいた。 「ヨメが待ってるぞ」  嫌な予感がした。きっと自席に岡崎が座っているに違いない。  とっさに回れ右をして食堂に行こうと思った尊だが、しぶしぶ中に入った。果たして、岡崎が自席に座って優雅にコーヒーを飲んでいた。尊の姿を認めるや否や険しい顔つきになり、左手首の腕時計を指さす。 「中瀬、遅い! これじゃ食後じゃなくて食前のコーヒーじゃないか」  勝手に来て勝手に文句を言っている。しかも、岡崎は医局で見たことのないマグカップを使っていた。 「岡崎、そのカップ……?」 「ああ、一向に用意してくれないから、自分で持ってきた。ここで使う用ね」  岡崎はマグカップを尊によく見えるように掲げた。プリキュアのイラストがプリントされた、およそ心臓外科医局には似つかわしくない代物だ。 「さくらちゃんが選んでくれたんだから、割っちゃだめだよ」  思わず尊は、気を遣って岡崎のためにマグカップを用意してやろうと思ったことを後悔する。岡崎はまるで小さな子どもが親に甘えるような口調で「ねえ中瀬、早くご飯食べようよう」と言って立ち上がり、ソファセットに移動した。しぶしぶ尊もソファに座る。  岡崎のペースにまんまと乗せられた尊は、せめてもの嫌味を言ってみた。 「……医学書と書類にまみれた医局だけど、平気なのか?」 「うん、全然平気。心臓外科のは専門外だから」  そう言って完璧なウインクを飛ばすと、岡崎はマグカップと同様にプリキュアが描かれたトートバッグから、ふたつの弁当を取り出した。弁当袋に入れられた弁当と、プラスチック容器に入れられた弁当だ。プラスチック容器の方を尊に差し出す。 「はい、これ中瀬の。今日の日替わり定食A、チキン南蛮だよ。今回は僕のおごりだけど、次回からは自分で支払ってね」 「もしかして、食堂のか?」 「うん。どうせ今日も食堂に来ないと思ったから、特別におばちゃんに容器に詰めてもらったんだよ。さすがに味噌汁は入れられないって言われたけど」  何だか嬉しそうに言う岡崎を見て、尊は不覚にも感激してしまった。 「ありがとう」  それにしても、今日の日替わりがチキン南蛮だったとは……。先程売店で買ったカレーキャベツのホットドッグとチキン南蛮は、夜に回すことにした。 「ちなみに、B定食は何だった?」 「ん? 白身フライ」  そう言いながら、岡崎は自分の弁当箱からつまみ出したブロッコリーを尊のご飯の上に載せた。そして当たり前のように尊のチキン南蛮をひと切れつまむ。 「おい!」 「どうせ夜もチキン南蛮でしょ?」 「まあ、そうだけどさ……」  文句を言える立場ではないが、何となく釈然としない。  尊はタルタルソースがたっぷりかかったチキン南蛮をひと切れ口に入れて咀嚼したあと、ふと思いついたことを言葉にした。 「なあ岡崎。もし、自分の患者に臆病で繊細な子がいたとして、やっぱり治療の内容とか全部説明した方がいいと思うか?」 「例の十一歳の子?」 「ああ」  岡崎はきれいな箸使いで玉子焼きを切り分け、ひとかけらを口に入れる。さすが育ちのいい岡崎医院の坊ちゃんだけあり、彼の食事の仕方はとても上品だ。 「そりゃあ、話すべきだと思うな。何も知らされないまま麻酔かけられて眠らされるのって、嫌すぎるだろ」 「確かにな」 「その子のことは主治医の中瀬が一番よく知ってるんだろ? もっと自信持てよ」 「ああ。ありがとう」 「あっ、僕、今いいこと言った? 言ったよね」  もう一切れ、チキン南蛮を取られた。
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