離れても離れても

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離れても離れても

     本当は智明(ちあき)と言う名前ではなかったのだ。  「ともあき」となるはずだった。  それが、出生届けを出しに行った父親が浮かれて酒を飲んで行ったせいで「ちあき」と書き間違えた。姉のときと混同していたのだろうと母親が教えてくれた。  ちあきになったおかげで姉の千紘と名前の頭が同じになり、間違えやすいために、皆からアキと呼ばれるようになった。  誰に言われても構わない。  でも。 「アキ、一緒に帰ろう?」  旭にだけはそう呼んで欲しくなかった。 ***  旭が好きだった。  いつからかは分からない。  でも、旭が大変だったあのとき。玄関先で蹲っていた旭が顔を上げた、あの瞬間。  泣きだした旭の体を抱き締めて、旭は自分のものだと思った。  変だ。  旭は男の子なのに。  同じ男なのに。  なんだろうこれ。  やがて好きなのだと自覚した。  この気持ちを抱えたまま、これからどう旭と言葉を交わせばいいのだろう。  どんな顔で笑えば。  昨日まで当然に出来ていたことが、その瞬間穂高は分からなくなっていた。  隠そう。  この気持ちは誰にも知られないようにしないと。  けれど中学に上がってすぐ、千紘はそんな、穂高の旭に対する気持ちに気がついた。 「信じられない!」  ぱん、と頬を張られた痛みは、皮膚をすり抜けて肉を切り裂いて、胸の奥を抉った。  信じられない。  分かってる。  そう、自分だってそうだ。  信じられないのは自分だって同じだ。  だが、どうにもならない。  気がついたときにはもう穂高は旭が好きだった。  取り返しのつかないほどに好きになっていたのだ。  学校から帰宅したばかりの玄関で、荒々しく2階に駆け上がっていく千紘の足音を聞きながら、穂高は途方に暮れた。  千紘に知れてしまったことで、穂高はそれから段々と旭と距離を置くようになった。登校時間を変え、行く道を変えた。下校は部活があったので同じ時間に帰ることはない。最初のうちは穂高の態度の変わりように戸惑っていた旭も、やがてそれにも慣れたのか、穂高を見かけてもあまり声を掛けてこなくなった。  部活で遅くなった帰り道、暗がりの中で旭の家を見上げた。2階の旭の部屋に明かりが灯っているのを見て、どうしようもなく声が聞きたくなった。こんなに近くにいるのに、もう随分と長く旭の声を聞いていないことに気づいた。  旭が中学を卒業していった。次は穂高の番だ。高校は姉と同じところだと知っていたので別の高校にした。  バスで通わなければ行けないところだ。 「え? そんな遠くの高校がいいの?」  受験先にそこを選んだと知らされた穂高の母は驚いたように言った。その高校には剣道部がなく、穂高は剣道の推薦枠で姉と旭の通う高校に推されていたからだ。 「剣道は部活でやらなくても出来るし、藤間道場のほうに行くよ」  地元の道場のほうに変えると穂高は言った。  実際のところ、部活動での上下関係の煩わしさにうんざりしていた。強豪校の部活ともなればその倍以上だろうし、そこまでして続けていきたいのかと疑問にも思っていたのだ。 「いいんじゃないの、本人が言ってるんだし」 「千紘」 「好きにすれば」  じっと穂高を見て、ふいと千紘は目を逸らして自分の部屋に行ってしまった。  千紘の視線から、言いたいことはよく分かっていた。  あれ以来、千紘とはお互いに必要なこと以外口を利かなくなっていた。  深く息を吐く。 「…とにかく、もう決めたから」  穂高は心配そうに自分を見ている母親にそう言った。  無事高校に合格し、穂高は朝早くに家を出るようになった。  旭には絶対に出くわさない時間、千紘がようやく起き出すころだった。  バスに揺られ高校に行き、授業が終わると週の半分はそのまま地元の道場に通った。帰りはとっぷりと日が暮れたあとで、おかげで旭はもとより千紘とも、格段に顔を合わせる機会が減っていた。  これでいいと思った。  相変わらず胸の奥のほうでは旭への思いがくすぶっている。  物理的な距離を自分で作り、出来るだけ会わないと決めたことで、より深く旭を思うようになっていた。  小さな火種が外側だけを残して、じわじわと身の内側を焼き崩していくようだ。  苦しさに息を吐くが、その炎は体の奥深くに入り込んでしまっていて、自分ではもうどうしようもないと分かっていた。  どうしてだろう。  どうして旭なのだろう。  誰か別の人を好きになったらいいだろうか。  旭以外の、誰かを? 「…あの」  か細い声がして、穂高は目を上げた。  そこは道場から家に向かう道だった。  少し先のほうに誰かが立っている。  ふたり分の人影。 「あの、西森くん」  暗い外灯の下、周りの家々から漏れる明かりに目を凝らすと、そこにいたのは旭と、知らない女の子だった。ふたりとも制服姿だ。  同じ高校の制服。  ぎゅう、と心臓を鷲掴みされた気がした。  こんな時間に──どうして、どうして旭が、こんなところに。  穂高はその場に立ち尽くした。 「今日はありがとう。ごめんね」 「いいよ、通り道だし」  そう言って旭が女の子に微笑んだ。  暗がりの中でも、向き合った女の子が頬を赤くしたのが分かった。 「じゃあまた明日」  うん、と女の子は頷いた。そこが彼女の家だったのか、彼女は立ち止まったまま、こちらに歩いてくる旭に小さく手を振っている。旭も肩越しに振り返って手を振っていた。その顔が前を向いて視線が上がり、目が合った。 「…アキ?」  目の前に立っているのが穂高だと分かって、ふわっと旭が笑った。嬉しそうに近づいてくる。びっくりした、と笑った。 「久しぶりだな」  出来れば、背を向けて逃げ出したかった。  今声を出したら、思いが溢れてしまう。  ぎゅっと穂高は荷物を持つ手に力を込めた。 「今帰り? あ、道場?」  穂高の荷物に気づいて、旭が言った。 「…そうだけど。…旭は?」  旭の向こうにまだ女の子が立っているのが見えた。こちらの様子を窺っている。穂高がじっと見つめると、慌てたように家の中に入って行った。穂高の視線につられたように旭も後ろを振り返った。  ばたん、と玄関の閉まる音に、旭は顔を戻した。 「さっきの、同じクラスの子。委員会で遅くなったから送って来たんだ。俺、文化祭の実行委員になってて」  自然と歩き出し、傍の道を左に折れた。住宅街の一本道、まっすぐに歩くだけだ。  昔と同じように旭は穂高の隣を歩いた。  話す旭の声は穏やかで、変わりなかった。まるで長い空白などなかったかのようで、穂高はどうしようもなく苦しくなった。  どうして──自分だけが。 「…彼女?」  気がつけば要らぬことを口走っていた。  え、と旭が目を丸くして穂高を見上げていた。  目が合うと困ったように笑った。 「違うよ? あの子、ちーちゃんの友達なんだ」  ちーちゃん。  千紘の顔が浮かんだ。  ──ちーちゃんかよ。  奥歯を噛み締めた。 「アキこそ彼女とかは?」 「いねえよ」 「えーそうなのか? 高校共学だろ、アキもてるだろ?」 「…もてねえよ」 「うそ、アキかっこいいのに…」 「るせえな」  苛立ちのままに穂高は怒鳴っていた。 「ねえっつってんだろ!」  旭が息を呑んだ。目を大きく見開いている。  驚きと哀しさが旭の顔にあった。  ああ、傷つけた。  傷つけてしまった。  腹の底が灼けるようだ。  火の塊を飲み込んだように、穂高は自分が激しい怒りの中に放り込まれているのを感じた。  駄目だ。  俺は駄目だ。 「うるさいんだよ」  背を向けて走り出した。  アキ、と旭が呼んでいた。  振り返ることは出来なかった。  旭以外の誰かを好きになることも出来ないまま、高校生活も半ばを過ぎた。千紘と旭は受験生となり、穂高も来年には同じように大半の時間を受験に注ぎこんでいくことになる。道場通いも来年の春までと決めていた。  それはまだ夏の暑さの残る、秋のはじめだった。穂高は地元から少し離れた市内のカフェに、彼女とふたりでいた。 「穂高くん何にする?」 「なんでもいいよ」 「もう、なにそれー」  不貞腐れたように彼女が頬を膨らませるのを見て、穂高はそっと視線を逸らした。  旭が言ったように穂高はもてた。何もしていなくても目立つ恵まれた容姿に、異性が引きつけられないわけはない。何度か告白をされ、流されるようにして何人かと付き合った。だが相手のことをよく知る前に関係はいつも終わりを迎えた。残念だと思うこともなかった。ああ駄目だったんだなと他人事のように思った。彼女たちを好きだったことは一度もない。ただ誰でも──誰でもよかったのだ。旭以外の人なら。誰でも同じに見えた。 「じゃあ私これにしようかな…」  目の前に座っている彼女もそのうちのひとりだ。夏の始めに付き合い出したが、もうすぐ終わってしまうような、そんな予感がしていた。  決まった? と彼女が言ったので、穂高は頷いて、近くの店員を目で探した。  窓際の席の接客をしていた若い男の店員が、気がついてこちらに笑った。 「──」  その店員が接客をしている人の横顔に、穂高は息が止まりそうになった。  旭だった。  柔らかく笑んで、何かを話している。  どうして。  鼓動が早くなっていた。 「お待たせしました、ご注文うかがいます」  彼女が注文をした。上の空でそれを聞き、促されて穂高もコーヒーを注文した。 「かしこまりました」 「それだけ? ケーキ食べないの?」 「いいよ」  えー、と不満そうに言う彼女に構わず、穂高は以上で、と店員に告げた。 「少々お待ちください」  会釈をして店員が去っていく。厨房に入る前に店員はまた旭のテーブルに寄り、何かを話しかけた。店内のざわめきが邪魔をして会話は聞こえない。ふたりは笑い合った。  その瞬間、(うなじ)の毛が逆立った。  知り合いか、友達。  ぎしぎしと心臓が鳴る。 「ねえ、このあとどうする? まだ時間あるし映画でも観る?」 「ああ」 「じゃあ…」  彼女が携帯を取り出して映画情報を見はじめるのを横目に、穂高は旭を見つめていた。  旭を見るのは、苛立ちに怒鳴ってしまった、あの夜以来だった。  あれから少し経ったころ、旭の昔のことがまた噂になった。これまでにも同じことが繰り返し起きていて、その度に穂高は旭の様子を見に行っていた。どうするか迷ったが気になって堪らなくなり高校の近くまで行ったが、会えるわけもなかった。  そして程なく旭は母親を亡くした。急な病死だった。そのとき穂高は剣道の試合に出るため関東のほうにいた。線香を上げることもかなわず、その後旭は母親と暮らしていた借家を出て、ほど近い祖父の家へと引っ越して行った。  旭の様子を見に行ってくれと母親にそれとなく言われたが、千紘が傍についているかと思うととても行けなかった。  去年の今ぐらいの話だ。 「……」  こちらに背を向けている左の横顔。  半分ブラインドを下げた窓から、曇り空の淡い日差しが旭の手元を照らしていた。  目元にかかる柔らかな髪。  男にしては白い肌に、黒のゆったりとした服が似合っている。  本を読む、ページを捲る指先。  頬杖をつく横顔が少し痩せた気がした。  背が伸びただろうか。  体つきが、ほんの少しだけ大人になった気がした。  旭の元に飲み物が運ばれてきた。  カップからしてコーヒーのようだ。旭がひと口飲んで、首を振る。さっきの店員が砂糖入れを笑いながら旭の前に置いていた。  しょうがねえなあ、と聞こえた気がした。  旭がそれからふたつ取り出して、カップに落とす。  くすっと店員が笑い、旭の髪をくしゃっと撫でた。 「──」  ざあ、と体中を血が駆け巡る音がした。  同じ場所に住んでいるのだ。  出くわしたからといって、何も特別不思議ではない。  なのに。 「ね、これなんか面白そう」  喋る彼女の声はどこか遠くのほうで聞こえていた。  どうして、と穂高は泣きたくなった。  どうして──こんなに裏切られた気持ちになるのだろう。  自分じゃない人に向けられる、あの笑顔が欲しい。  どうして今旭の傍にいるのが俺じゃないんだ。  離れたくせに勝手な言い分だ。  俺から離れたんじゃないか。  それでもたまらなくやるせなかった。  自分のどうしようもなさに打ちのめされた気がした。  半年後、旭は無事大学に合格し地元を出て行った。千紘は家から通える看護学校に通い始めた。  将来どうしたいかと聞かれ、穂高は答えられなかった。  何度も自問自答を繰り返した。  旭が上京したその年の春の終わりに、穂高は旭の祖父、貞治(さだはる)に会いに行った。  新しく出来た老人ホームに行くと、貞治は庭木を切っていた。 「おう、智明。元気にしてたか?」  子供のころに何度か会ったことのある貞治は、穂高のことをちゃんと覚えていた。 「えらいでかくなっちまったなあ、昔は旭と大して変わんなかったのによお」 「…いつの話だよ」 「ははは」  外に置かれたベンチにふたりで腰かけた。  来る途中に買って来たたい焼きを差し出すと、嬉しそうに貞治は齧り付いた。中で見ていたのか、職員の女性がお茶を淹れて持って来てくれた。  暖かな春の日差し。  しばらく黙ってふたりでたい焼きを食べ、食べ終わると、包んでいた紙をくしゃっと穂高は手の中で丸めた。  それをしばらく手の中で弄ぶ。 「貞さん、俺さ、…」  何度も繰り返してきた言葉を穂高は言った。 「旭が好きなんだ」  鳥が空を飛んでいた。  青くて、どこまでも澄んでいた。  どこまでも行けそうだった。  ふうん、と貞治は言った。 「好きで、どうしようもないんだよ」  俯いて見た手の中で、丸めた紙がゆっくりと戻っていく。元の形を取り戻すように。  まっさらだったころに戻るように。  でも、もう戻れない。  そうか、と貞治は呟いた。 「そりゃ難儀だなあ」 「うん」  貞治は空を見上げていた。  穂高は地面を見ていた。  よく分かんねえけどよお、と貞治は言った。 「おれが死んだらさあ、旭はひとりなんだよなあ」  ぽん、と頭の上に手が乗った。  ごつごつとした皺だらけの手が、くしゃくしゃ、と穂高の髪を掻きまわした。 「寂しくないように傍にいてやってくれよ、な?」 「──」  ぽとりと、目の縁から涙がひとつ零れ落ちた。 「…うん」  思いを伝えることは出来ない。  旭のために。  この思いは強すぎるから。  きっと会えないだろう。  でも同じ場所にいて、見守ることは出来るかもしれない。  旭のいる場所にいたい。  翌年の春、穂高は大学進学を辞め、旭を追って上京をした。貞治には旭の居場所を訊かなかった。    上京してしばらくは、昼間はコンビニなどでバイトを掛け持ちし、夜は通っていた藤間道場と繋がりのある社会人向けの道場で初心者相手に稽古をつける仕事を得ていた。寝起きする場所はどこでもよかったので、道場で知り合った人の紹介で繁華街にあるビルの中の安い部屋を借りた。親には頼れなかったので、保証人には道場の人になってもらった。  家を出てから、家族には連絡を入れていない。  どうしても行くのかと聞いた母親に、ごめんとだけ言った。 『悪いけど、何言われてももう決めたから』  息子の頑固さを知っている母親はそれ以上何も言わなかった。  本当は大学に行って欲しかったと分かっている。  穂高も旭と同じ大学に行くことを考えた。  でも、別の道を選んだ。  小さな窓を開ける。夜の空はネオンの光で明るかった。  いつでもここは明るい。  住んでみれば快適な場所だった。  誰も穂高のことなど気にもしない。  ここにいることを誰も咎めない。  騒がしさにも次第に慣れていった。  半年後、稽古をつけていた道場が閉鎖されることになり、穂高は新しい仕事を探すことになった。間の悪いことに住んでいた部屋も建て替えのため出て行かなければならなくなった。  仕事と寝場所を同時に得るのは中々に難しい。幸い貯めたお金があったので、しばらくはネットカフェで暮らせそうだと思った。  昼間のバイトだけでは食べていくのはやっとだったので、夜のバイトを探した。住んでいた界隈をしらみつぶしに当たってみたがどこも芳しくなく、少し足を延ばして別の駅の繁華街を歩いた。土地勘がまるでなく、昼間の繁華街はどこも同じように見えて、迷路のように入り組んだ路地で穂高は迷ってしまった。 「まいったな…」  路地の奥を抜ければ大通りに出られそうだと、穂高は足を向けた。  そしてその奥に見つけたのは、ビルとビルの間にある大きな扉だった。 「…すごい」  なんだろう、これ。  まだ施工途中なのか、扉の周りには大型の工具類が置かれ、薄く開いた扉の中から何本もの電気コードが伸びていた。  店?  …何の? 「あれ、きみ何?」  声に振り向くと、男が立っていた。 「何か用かな?」  ふわふわした髪の男はにっこりと笑って言った。 「ここ、何ですか?」  扉を指差して穂高は聞いた。 「店だよ。俺が今作ってるの」 「作ってる…?」 「趣味。バーにする予定なんだよね」  男はにこっと穂高に笑って、穂高の横をすり抜けた。パーカーの袖を腕まくりする。細身の体、華奢に見えたが、腕はしっかりと引き締まった筋肉で覆われていた。大工には見えないが、何か腕を使うような仕事をしていると思った。  あの、と気がつけば穂高は声を掛けていた。 「どうして、これ、扉なんですか」 「ん?」  屈んで工具を手にしていた男が穂高を見上げた。  ああ、と笑う。 「俺の好きな言葉にさ、あるんだよ。すべての壁は扉である、ってのが」  穂高を見上げたまま男は続けた。 「意味はそのままだけどね。乗り越えることの出来ないものも、いつかは出来るようになる、とか」 「……」  いつかは、出来るように? 「解釈はたくさんあるけど、要は立ち向かえってことかな。諦めるなとか、そんな感じ。エマーソンって人が残した言葉で、俺はそれがすごく好きでさ。なんかよくない? 自分を囲っている壁が扉だと思えば、どんなことも出来る気がしてさ」  ふふ、と笑って男は手元に視線を戻して、木の板のサイズを測り始めた。穂高はぼんやりと、それを眺めていた。  扉だと思えば。  胸の奥にすっと風が通った気がした。 「あの」  ん、と男が顔を上げた。 「俺を、雇ってもらえませんか」  一瞬男は面食らったように目を丸くした。きょとんと穂高を見つめ、えーと、と言った。  じっと穂高を見つめる。上から下まで視線が一往復した。 「あのさあ、きみ未成年じゃない?」 「──」  穂高は驚いた。未成年だと、年相応に見られたのはこれが初めてだった。大抵は二十歳を超えて見られるのに。 「そうだろ? いくつ?」 「19…、です」 「大学生?」 「違います」 「あ、家出?」  穂高の荷物をちらっと見る。 「違います」  にやっと男は笑った。 「ま、18歳以上だしな。家出はないか」 「働かせてください」  男は立ち上がって、またじろじろと穂高を眺め回した。 「ふーん、ガタイいいし見栄えするし、絶対黒服とか様になるんだけど、でも俺、二十歳以下は雇わない主義なんだよね」 「高校は…ちゃんと卒業してるけど」 「そうね。そう見えるよ」  少し思案するような顔をしたあと、男は言った。 「働きたい?」  穂高は頷いた。 「んー、じゃあさ、二十歳になるまでうちの奥さんの店で働いてよ。ちょうど人手も足りなかったから」 「…奥さんの店?」 「夕方からやってる総菜屋なのよ。来年には小料理屋にするつもりなんだけど、ひとりじゃ何かと大変そうでさ。手伝う?」 「はい、やります」  これを逃したら駄目だと、直感で穂高は返事をした。 「いる間、うちの奥さんに料理教えてもらえばいいよ。バーっつっても酒出すだけじゃ今どき駄目だし」  散らかっていた工具類を男は手早く片付け始めた。穂高が手伝うと、男はにこにこと笑った。 「名前なんて言うの?」 「穂高です。穂高、智明」 「ちあき」  確かめるように男が言って、穂高は頷いた。 「俺はね、灰庭」 「──ハイバさん」 「そう」  どんな字を書くのかまるでそのときは分からなかった。 「名前はユーリ」 「ゆうり?」 「違う、ユーリ、カタカナで。言ってみな」  ユーリ、と言ったら、そう、と灰庭は頷いた。 「俺四分の一はロシア人だから」  そのあとすぐに灰庭の妻のところに連れて行かれ、その日の夕方から穂高はその総菜屋で働く事になった。働き出して二日目には、勘のいい灰庭の妻にネットカフェで寝泊まりしていることを見破られ、こっぴどく叱られた。保証人になるからアパートを探して来いと言われ、不動産屋を回り、夜働いている人ばかりが住んでいるアパートを運よく見つけることが出来た。  そして契約が済むと、家族に連絡をしろと約束させられた。 「あのねえアキちゃん、どういう事情があるか知らないけど、もう大人になるんだから、けじめとして、それくらいしたって罰は当たらないと思うのよねえ」  口調は穏やかでいつもにこにこと笑ってはいるが、灰庭の妻は灰庭以上に手厳しかった。言ってみれば灰庭と千紘を足して何かを混ぜたような具合だ。  穂高は苦手意識を持ちつつも灰庭の妻の元で料理を学んだ。  二十歳になって、コンコードで働き始めた。はじめの半年ほどは灰庭に教わった。元々シェフだったという灰庭は手際もよく教えるのも上手かった。仕事を覚えるとふたりで店を切り盛りした。そして一年ほどが過ぎたある日、突然灰庭は店に来なくなった。  慌てて連絡を入れると、だってもうお前の店だもん、と言われた。 「…は?」 『名義、変更しておいたから。まあしばらくは俺がオーナーなんだけどね』 「ちょ…っ、あんた、一体どういうつもりだよ!」 『えーどういうもこういうも、そういうつもりだったし』  はじめからだよ、と悪びれずに言われて穂高は唖然とした。  はじめから?  はじめから──俺とはじめて会ったときからか? 「頭おかしいだろあんた…!」 『なんで、いい話じゃないか。どうせおまえはここにいるだろ? 旭さんがいる限りはさ。その旭さんも地元には帰れないんだろ? だったらさ、もうそれでいいだろ』 「──」 『骨埋めろよ智明』  二十歳になった祝いと称して酒を飲まされたときに、穂高は自分の抱えているものを──ほとんどすべて、彼ら夫婦に話してしまっていた。酔っていたところをしつこく問い詰められたとはいえ、あれは一生の不覚だった。くそ、と穂高は呻いた。 「…弱みでも握ったつもりかよ」 『馬鹿だねえ智明』  しみじみと──どこか呆れたように灰庭は言った。 『俺は馬鹿な子ほどかわいいよ』 「あのなあ…っ」 『まあそういうわけだから。たまにはお母さんに連絡しろよ』  がちゃん、と切れた電話を呆然と穂高は眺めた。 「…信じらんねえ」  あの夫婦はどうかしている。よく知りもしない男に店の名義を渡すなど──灰庭のことだから自分のことをきちんと調べ上げた上でのことだろうが、それにしても。 「……」  深く穂高はため息をついた。  灰庭は穂高に居場所をくれたのだ。  きっと。  恩は一生かかっても返せそうにない。  穂高は店の冷蔵庫を開けた。入っているもので何が出来るかを頭の中で素早く組み立てながら、とりあえず仕込みを始めた。  それからどれだけの春が過ぎて行っただろう。  どれだけの時間が。  雑踏の中で穂高は振り返る。  旭がそこにいるような気がして、いつも。  人波に目を凝らした。  気持ちを打ち明けた貞治には、旭の居場所を訊かなかった。知っていれば会いたくなる。会いに行ってしまうから、訊けなかった。  どこかに旭はいる。そう思うだけでよかった。  離れても離れても思いは強くなるばかりだ。  いつか、もしも──旭に出会ったなら、俺は一体どうするのだろうと、時々穂高は考えた。  旭はきっともう自分のことなど覚えてはいないだろう。  思いを伝えられないのなら、いっそ忘れたふりでもするか。  扉が開いて穂高は目を向けた。ふたり連れのサラリーマンが入って来た。先に入って来た人が入り口でよろけるのが見えた。 「いらっしゃいませ」  でももしも、また会えて、旭が覚えていてくれたなら。 「──」  もしも。  そのときが来たら──  一体どうなるのだろう。  そう。 「アキ…!」  離れても離れても。  いつも突然に、旭は穂高の前に現れるのだ。 ***  真夜中、穂高はアパートへの道を歩いていた。  見上げたアパートの窓はどれも暗かったが、ひとつだけぽつんと明かりが灯っていた。 「…ただいま」  帰り着いた部屋の中では旭が毛布にくるまって眠っていた。  この場所が気に入っているのか、いつもソファの上だ。風邪を引くと言ったのに。穂高は苦笑して、傍に膝をついた。  柔らかな髪を撫でる。  座卓の上には飲みかけのコーヒーと携帯、この部屋の合鍵が手袋の上に置かれていた。部屋の隅には旭の鞄。仕事が終わって直接ここに来たようだ。  少し疲れた目元、色々なことが片付いたあと配属替えの話もあったらしいが、旭は変わらずに原口と同じ部署で働いている。最近上司が変わり何かと良い意味で忙しいと、昨日店を訪れた原口がぼやいていた。 「ん…」  じっと見ていると、旭が身じろいだ。薄く目が開いて、とろりとした目が穂高を見つめた。ふわっと笑う。 「ちあき…、おかえり」  旭は最近穂高をちあきと呼ぶようになった。アキとはあまり言わなくなった。本人は気づいていないようだが。  子供のころからの願いを旭は知らないのに。不思議なものだ。  穂高は優しく微笑んだ。 「ただいま」  明日から二日間、互いに休みを取っていた。  灰庭からもぎ取った休みだ。  貞治に会いに行くつもりだった。正月には帰れなかったから。  柔らかな唇を塞ぐ。穂高の大きな服を着た旭の腕が首筋に絡んだ。 「ん…、あ」  抱き締めて──そのまま。  ほんの少し暖かな夜。  春はもう近い。
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