遠慮しないよ

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遠慮しないよ

ミユを寝かしつけ、残った仕事を片付けながら、カーテンをし忘れた窓にふと目をやった。 隣の長尾さんの部屋の灯りが点いている。それも蛍光灯ではなく暖色系の赤に近い光。 珍しいな、こちら側の部屋の灯りが点いているなんて。 どうしてその日に限って僕は、向こうの部屋の明かりに気づいてしまったんだろう。 長尾さんの部屋の窓に黒い影が揺れている。 それは男と女が身体で愛を交わしているその影だった。 僕は頭を殴られたような衝撃を受けた。 カーテンを閉めればいいのに、身体が固まって、その様子から目が離せなかった。 隣に住んでいる年上の女性が、誰かと交わっている影。 彼女が誰と何をしようと、僕には関係のない話で、長尾さんは子供に良くしてくれるただのいいお隣さんだ。 それなのに、僕は、猛烈に相手の男に嫉妬し、下半身はガチガチに張りつめて反応していた。 長尾さんの身体が上下に揺れる。 男の手が下から彼女の乳房に触れた。 ねえそれは誰? つきあいが長い男なの? そんなに気持ちいい? 僕じゃ駄目かな……? 彼女の動きが止まり、背中をそらせると同時に、僕の手の中に白いものが溢れた。 妻の事は愛してる。今でも。でも僕はまだ生きている。 僕は、人肌恋しい。誰かを抱きたい。抱いてほしい。 ……それが、あなたならいいのに。 それからしばらくお隣の長尾さんと会うことは無く、助けを求める機会も無かった。僕からすれば気まずかったから、それでいいと思っていた。 あの時見た光景は忘れなければ。 そして、あの人ではなく他の人を探そう。 子供を世話してくれるお隣さんをそういう目で見るのはとても失礼だ。 そう決心したはずだった。 「えっ?忘年会ですか?」 「もちろん来るよね?初めての忘年会だし」 うちはWEB関係だから、そういうの無いと思ってたんだけどな…。 29日だったら、親が迎えに来て先にミユだけ実家に帰る予定なのに。 延長保育も限界がある。長尾さんにお願いするしかないか。 僕は、その夜に長尾さんの家に頼みに行った。 「はーい!あ、佐藤さんだったの」 この人もインターホン見ないで出るタイプなんだ。女性の一人暮らしなのに不用心だな…。 「あの、いつも申し訳ないんですが、今月28日が会社の忘年会なので、ミユをお願いできたらと……」 「28日?ちょっと待ってね、スケジュール見るから」 長尾さんは奥から手帳を持ってきた。かわいらしいパステル色の手帳だった。 「うん、大丈夫。私の忘年会が次の日だから、被ってなくて良かった」 「すみませんいつも」 「いいのよ。何時に連れてくる?」 「18時には」 「了解。着替えとパジャマがあればいいからね。寝かしとくから」 「よろしくお願いします。あと、これ、貰い物なんですけど」 そう言って僕は、実は買って来た流行りのアップルパイを渡した。 「……気を遣わなくてもいいのに。でもありがたく頂いておくね」 その笑顔は、最初会った時よりもきれいに見えて、それは僕が彼女を好きだからなのか、あの男と付き合っているからなのか、よくわからなかった。 忘年会。 中途入社でも新人という事でしこたま飲まされた。 「え?お前シングルファーザーなの?苦労してんだな若いのに!」 「子供預かってくれる人がいるのはいい事だ!」 早く帰らせてくれるかと思ったら、 「じゃあ、今日は、思い切り飲んで帰れ!!」 小さな会社だから、忘年会に社長もいるし、帰るに帰れないのは確かだった。 「二次会は、あの店行こう、ほら、佐藤君が最初にやったとこ!」 部長、はりきり過ぎだよ…。 僕は長尾さんにメッセージを送った。 ”二次会行きたくないのですが、断れそうにありません。遅くなります。すみません!” すぐに既読になり返信が来た。 ”ミユちゃんもう寝たから大丈夫よ! ゆっくり飲んできてください” 頭を下げるスタンプを送った。 真っ赤な分厚いドアを開ける。香水と煙草と酒の匂い。 「あーらテッちゃんお久しぶりい~!ありがとね二次会に使ってくれて」 「あ、キャサリンさんこんばんは」 「何だか冴えない顔してるわねえ?」 みんなショーに夢中だけど、キャサリンさんは僕の隣に座り水割りを作った。 「何かあったの?前とは全然違う顔しちゃって」 「そうですか?自分ではわからないです」 部長がこっちを向いて言った。 「子供に土産買って帰るんだぞー?」 大きな声でわかりました!と返事をした。 「……テッちゃんお子さんいるの?」 「はい。今日は預かってもらってます」 「一人で育ててるの?」 「ええそうなんです」 僕は水割りを一口飲んだ。 「毎日疲れるでしょ?帰っても仕事みたいなものだもの」 「そうですね……でもそうも言ってられないので」 「頼れる人はいるの?」 「……はい、今日も子供をお願いしてきました」 今頼れるのは、長尾さんしかいない事に気付いた。 「良かったわね、そういう人がいて」 「はい、ありがたいです」 「……なのにあなた、なんでそんなに悲しそうなわけ?」 僕はいつの間にか泣いていた。 良くしてくれる、ご近所の、小母(おば)さん。 そう思っているだけなら良かったのに。 どうしてあんな年上の人を。 「あー、ちょっと、いろいろ……」 「何だか知らないけど、色々問題を複雑にしないことよ。好きなものは好き、イヤなものはイヤ、それで良くないかしら?」 「……そうですね」 「あとは無理しないこと。頑張り過ぎよアンタ」 キャサリンさんに背中を叩かれるかと思ったら、優しくさすられた。 余計に泣いてしまう。 僕は好きかもしれない人がいる。その人はすごく年上で多分付き合ってる男がいる。 そうか、それだけの話だ。 酷く酔ったまま僕は家に帰った。 それでもミユを連れて帰らないと。僕は長尾さんの家のドアをノックした。 「お帰り……あー、結構飲まされたわねえ」 長尾さんは髪を纏めて暖かそうなパジャマに上着を着て笑っている。 「とにかく上がって」 「はい、すみません、こんなに酔って」 「新入社員はそんなもんよ。飲まされるもの。そこ座って」 僕は促されるままにソファに座った。 「ミユは……?」 「寝室よ。ぐっすり寝てる」 寝室と聞いて、あの影を思い出してしまった。 目の前のこの人が、男とあの影を作ったのか? 人の好いお母さんにしか見えないこの人が? 「はい、お水。酔い覚まして」 長尾さんがコップに水を持ってきた。 同じ人なのかどうかを確かめたくて、僕はコップを受け取ると同時に反対の手で彼女の手首を引いた。 「……きゃ……!」 簡単に長尾さんは僕の方に倒れ込んだ。 「どうしたの佐藤さ……」 「名前で呼んでよ。ナツミ……」 何度も心の中で反芻した彼女の名前を呼んだ。 「相当酔ってるわね。おばさんをからかうもんじゃないわよ? ほら、離して」 彼女を腕の中に抱きしめて判った。 この人は、あの影の人と同じだ。 男の腕への収まり方を知っている身体。 男への抱かれ方も、男の悦ばせ方も知っている大人の女性。 気持ち良くなれるのは、あの男だけなの? 僕は? 彼女の髪を纏めているヘアゴムを外した。 長い髪がほどけて広がる。 僕は彼女を離すはずもなく、抵抗する身体をしっかり捕まえて口づけた。 「やめなさ……ん、んっ……!」 妻を亡くして以来、誰の事も抱いていない。 ナツミの柔らかい舌を感じて、僕は理性をすっかり失くしてしまった。 「ダメよ!」 「何で……」 「ミユちゃんが起きるでしょ?!」 「僕の事がイヤじゃないんだよね……?」 「そういうこ……」 「黙ってて、ナツミ」 僕は自分の小指を彼女の口にかませて、首筋に唇を這わせた。 ナツミの僕を叩く手が止まって背中を撫で始めるまで。 あの男よりも気持ち良くしてあげる。好きだよ。 「……テツ、ヒロ……」 その時に聞いた声は、信じられないほど官能的だった。 こんな声で自分の名前を呼ばれたら絶対に忘れられない。 この声を聞く為にまたしたくなってしまう。 きっと、あの男もそうなんだ。 「…悪いお父さんね。おまけに悪趣味よ」 ナツミが呟いた。 「僕はそうは思わないけど」 「何歳離れてると思ってるの?」 「……それに男もいるし?」 彼女は僕の顔をじっと見た。 「そうよ」 「別れてよ」 「別れるとかの関係じゃない」 「でも長い付き合い? セフレ?」 また彼女は僕の顔を見る。今度は目を丸くして。 「そういう事、今の若者は平気で口にするのね」 「もう他の男とやってるとこ見たくないんだ」 「え⁈」 ナツミが顔を赤くする。ずいぶん大人のくせに、顔を赤らめるなんてズルいな。 「もう窓からあんな影、見たくない」 「見たの⁈」 「見たよ」 「最低!!」 クッションで僕を叩く彼女は10代の女の子みたいだった。 可愛い。 「もう男と本気で付き合うのはこりごりなのよ。わかって」 「じゃあ僕だけ本気でいいよ」 長く長く口づけた。 「でも、あの男とは別れて、ナツミ」 「あー……前向きに検討することもやぶさかではありませんが」 「絶対だからね」 「はいはい、もう酔っ払いは寝てください。上行って!」 僕たちはミユを挟んでベッドで眠った。 このベッドであの影で見えた行為が行われたのかと思うと腹が立ったけど、見なかったら僕は自分の気持ちに気付かなかった。 こっちの窓からは、僕の部屋がこう見えるんだな。 真っ暗な僕の仕事部屋を覗いてから、僕は改めてナツミとミユを見た。 これからこのベッドで寝る男は僕だけだ。 そうでありますように。 いやそうするんだ、と思いながら僕は目を閉じた。
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