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遠慮しないで
もうここでは暮らせないな。
ニュースになるような大事故で、僕の妻は死んだ。
奇跡的に助かった一人娘を抱えて、僕は生きていかないといけなかった。
近所の人に噂され、マスコミに追われる生活。
まだまだ駆け出しのイラストレーターの僕は、仕事ができない状況にまで追い込まれていった。
「ここまでマスコミ攻勢が被害者家族に来るとは思いませんでした。お辛いでしょうが、警察も報道の自由を制限することが難しい。もし可能であれば引っ越しも考えられてもいいかもしれない」
担当してくれた警察官の松尾さんがそう言った。
「そうですね……実際疲れました。仕事もできないし」
「お子さんも小さいし、あなたもまだ若い。この土地に縛られなくてもいいかもしれません」
彼女との思い出がいっぱいある土地だけど、離れなければ。
4歳の娘を連れて、僕は引っ越しを決意した。
「ミユ、お引越しするよ。いいかな?」
まだ何もわからない娘に聞く。
「パパ、どこ行くの?」
「もっと楽しい所だよ」
「ママはくるー?」
「……まだ、遠くにいるんだ」
年若い父親、それもシングルファーザー。
好奇の目で見られることにはもう慣れた。誘拐に間違われて警察に呼び止められることなんてザラだ。
そういえば松尾さんがこう言ってくれた。
「もし、警察にお子さん連れて職質されたら、ご家族で撮っている写真を見せてください。携帯に入っている写真でもいいです。それでも疑う警官がいるなら、僕に電話をください。きちんと話をしますから」
「松尾さん、ありがとうございます」
「いいんですよ、ご縁があってあなたに関わるようになったんですから」
妻を亡くした悲しみに浸る暇もなく、独りぼっちで子供を育てていかないといけない僕にとって、こういう声を掛けてもらえることは何より嬉しい支えだった。
両親は田舎に帰って来いと言ったけれど、実家にまでマスコミが行くことになったら迷惑が掛かる。
二人で大丈夫、イラストの仕事は都会の方が多いから、と説得し、より人が紛れる街中で部屋を探した。
一応、両隣には挨拶した方がいいよな。
そう思いインターホンのボタンを押した。
右隣は落ち着いた中年男性、左隣も結構年上の女性だった。
「あら、かわいい娘さんね!こんにちは!」
その女性はミユに目の高さを合わせて挨拶した。
「……こんにち、は……」
娘がモジモジして僕の脚にしがみつく。
「僕が一人で育てているので、何かとご迷惑をお掛けするかもしれませんが」
「シングルなの?それは大変ね。私も一人で育ててるからわかるわ。うちは高校生。もう寮に入ってるから家は出てるけどね。何か困ったことがあったら、いつでも頼ってね。お隣になったのも何かの縁だし」
その人はヒマワリのような大きな笑顔で笑った。
「そうだ、今夜食べるものはあるの?」
引っ越した当日で、何も準備はしておらず、外食をするつもりだった。
「あ、適当に何か食べます」
「まだ小さいんだから外食が続くと辛いわよ。うちの作りおき、良かったら持って行って。……それに、荷物はもう解いたの?」
「いえ、今から少しずつ……」
「お子さんの名前は?」
「ミユです」
その人はミユに向き直って言った。
「ミユちゃん、おばちゃんち美味しいクッキーと楽しい絵本があるよ?くる?」
「……うん!」
「いやそんなわけには……」
「いいから、早く住める状態にしてあげて!私は長尾ナツミよ」
「長尾さん、ありがとうございます。僕は佐藤テツヒロです」
ミユは喜んで長尾さんの家に上がっていった。
いきなり初対面の人に子供を預けて大丈夫だろうか。
いや、親切な近所のお母さん、という感じの人だった。お言葉に甘えよう。
荷解きを必死でやった。確かにミユがいない方が気を遣わずに早くできる。
せっかくもらった時間を有効に使わなければ。
昼に挨拶しに行って、もう夕方になろうとしていた。
ある程度寝て起きて、暮らせる状態にはなった。僕の仕事部屋はミユが寝てからにしよう。
ミユを迎えに行った。
「預かっていただいてありがとうございました」
「どういたしまして。ミユちゃんお昼寝もしたし、いい子でしたよ」
「本当に助かりました。何とお礼を言ってよいか……」
「困った時はお互い様でしょう?はい、これは夕飯。二人で食べてね」
恐縮しながらも、もらったご飯で夕食を済ませた。
疲れて作る元気も外食に行く気力もなかったから、とても助かった。
「おばちゃんといて楽しかった!絵本読んだの!ウサギとヒヨコが出てくるお話とね…」
笑顔でミユが話してくる。
本当にありがたい。いいお隣さんで良かったな。
保育園へは無事入園できた。
僕は就職活動をし、ほどなくWEB関係の会社に滑り込むことができた。
ここならイラストも描ける。全くかけ離れた仕事ではない。
まず僕は子供を育てなければいけない。
「うちさ、この通り小さい事務所だから、何でもやるんだよね…。最初からこんな案件で申し訳ないんだけど、佐藤君に頼みたいとこ、この店のなんだ」
上司兼先輩から資料をもらう。ペラペラとめくってみて驚いた。
「夜の、お店ですか……」
「そう。派手に着飾ったニューハーフのオネエさん達がショーをするお店。打ち合わせは午後にできるそうだから、お願いできないかな」
最初からハードルの高い案件だな。でも、仕事は来た順番にどんどん回すしくみらしいから仕方がない。
「わかりました」
早速僕はアポイントを取り、打ち合わせへ向かった。
街角の落ち着いた雰囲気の喫茶店。相手が指定してきた場所だった。
「あなたが、WEB会社の佐藤さん?」
低めのハスキーな女性の声がして顔を上げると、派手な服装の背の高いきれいな人がいた。
「はい、僕です。キャサリンさんでいらっしゃいますか?」
「そうよ。お待たせしてごめんなさい」
こういう人に会うのは初めてだけど、話す内容はごく普通の打ち合わせで、何の問題も無かった。
「……もし、可能であればうちの店に一回来ていただきたいの。百聞は一見に如かずだしね。ショーを見てほしいわ」
「はい……」
初対面のクライアントに子供を一人で育てているなんて言えないし言ってはいけない。行かない訳にはいかないんだろうな。
「持ち帰って検討させてください。勤務時間外になりますので」
「飲み代は取らないから是非いらして」
会社に戻り上司兼先輩の小久保さんに相談した。
「一度ショーを実際に見てほしいって言われたんですが」
「あー、やっぱりそうなるよね~。いつでもいいよ、その日に言ってくれたら、次の日は午前休にするから。取材費は……1万まで。それ以上は自腹でヨロシク」
ミユをどうしよう。
連れて行くしかないか……。
ミユの事を考えると、金曜日の夜に行くことにした。夜連れまわして、翌日保育園は可哀想だ。
「今日は父さんのお仕事に着いてきてほしいんだ」
19時過ぎにミユの手を引いて玄関を出た。
「こんばんは!あら?こんな時間からお出かけ?」
お隣の長尾さんだ。
「はい、ちょっと用事があって」
「夕食ではなくて?」
「今から、仕事の取材なんです」
「え?仕事にミユちゃん連れて行くの?」
咎められているようで辛い。僕はすぐに立ち去ろうとした。
「佐藤さん、こういう時こそ頼りなさい。言ったでしょう、一人じゃ大変だから頼ってって」
長尾さんは呆れるようにして笑顔で言った。
「仕事だから、何時までかかるかもわからないんでしょ?」
「……はい……」
「ミユちゃん、お父さん仕事だから、おばちゃん家で楽しいことして待ってようか」
とミユの手を引いた。もうミユは長尾さんに懐いていて、おばちゃんのとこ行きたい、と言い出した。
「佐藤さん、着替えとパジャマ持ってきて。ミユちゃん寝かせておくから。転職したばかりなんだから、しっかり仕事してきなさい」
僕は慌ててミユの着替えを取りに行った。
「申し訳ないです。このお礼は必ず……」
「いいのいいの!私男の子育てたから、女の子は新鮮でいいわ。それより早く行って!」
追い出されるように僕は取材に出掛けた。
取材は無事終わったが、取材ということでアピールが凄くて逆に帰らせてもらえず、家に辿り着いたのは0時を回っていた。
インターホンを鳴らすのも憚られて、僕は長尾さんの部屋のドアをノックした。
コンコン、と5回ほど繰り返すと、玄関が開いた。
「あ、佐藤さん、お疲れ様」
ひそひそ声で長尾さんがそう言った。
「すみません、こんな遅くまで」
「いい子にしてたわよ!夜は8時半には寝たわ」
「いつもより早いです」
「子供はね、本当は早く寝るものよ。上がって。私じゃもうミユちゃん抱えられないから」
「あ!すみません……お邪魔します……」
「若い時ならいけたんだけど、ごめんね」
よく考えたら、僕よりも母に近い年齢の人だ。随分ご迷惑をかけてしまった。
長尾さんの家は暖かい家庭という感じの雰囲気で、これはミユも安心するはずだ、と思った。一人で子育てした、と言っていたけれど、長尾さんは何故そうなったんだろう。
少し酔っているからか、そんなことを考えた。
「本当にありがとうございました」
「また困ったときは声かけてね。あ、そうだ、電話番号教えとくね。私も、一人で育ててた時は、友達からシングルの仲間やらたくさんの人に助けてもらったから」
「あの、僕にもできることがあれば言ってください。していただいてばかりなので」
「あはは、じゃあ、いつか高い所の電球でも替えてもらおうかな。この建物、2階の天井が高い所があるでしょ?」
そう長尾さんは笑った。
仕事も順調で、ミユと二人の暮らしにも慣れて8か月が過ぎた。
長尾さんはたまにおかずのおすそ分けをくれたりして、僕ら親子を気に掛けてくれている。お礼に先日天井の高い電球を替えた。
最近の悩みは、保育園のママさんだ。
「ねえ佐藤さん、今度子供達と一緒に遊びに行きましょうよ」
子供のために付き合いも大切だとは思うが、この人は何か違う。多分僕に興味を持っているのだと思う。
この人もシングルだと言っていたっけ。まだ僕は妻の事が好きだし、そんな気分には到底なれない。
何とかのらりくらり断っていたが、正直言ってしつこくて困っていた。
ある夜、インターホンが鳴った。
隣の長尾さんかな?と画面も確認せずに玄関の扉を開けた先には、例の保育園のママがいた。
「な……なんでうちに……」
「佐藤さんこんばんはー!近くまで来たから一緒に夕食でも行かないかなと思って!」
男の子を連れたその人は、笑顔でそう言った。
どうして家まで知っているのだろう。
応対に困っていると、長尾さんが彼女と同じぐらいの年齢の男性と帰ってきた。
誤解されてしまうじゃないか。
僕はものすごく焦った。
それに、長尾さんって一人じゃなかったのか?あれ誰だろう?彼氏?親戚?
長尾さんは僕と保育園ママを一瞥すると、ニコッと笑って男性と部屋に入って行った。
「すみません、もう夕食は食べたので。あと、もうお誘いは結構です」
目の前のママさんにきっぱりと断ると、僕は玄関の扉を閉じた。
僕は全く関係のない女性といることを長尾さんに見られてしまったことがショックで、でもそれが何故なのかは自分でもよくわからなかった。
何でこんなに焦っているんだろう。
その答えはその夜に明らかになった。
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