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タヌキの話は俺もさっき聞いて知っている。
新婚旅行でオーストリアに行く予定なのだが、勝手に帰国の予定をを伸ばされオーストリアの旅行の後でイタリアとドイツの支社の視察に行くように組み替えられていた。
おそらく支社の視察だけでなくイタリアの祖父のところに挨拶に行く時間を作ってくれたのだと思う。
タヌキの親心だ・・・と思いたい。
ついでのようにドイツが付いている・・・あそこが今新規事業の開拓に苦戦しているなんて話は聞いていないってことにしたい。
・・・おそらく何とかしてこいって事なんだろうな。はあ。
まあ、何とかなるだろう。
急いで自分もシャワーを浴び寝支度を整えて寝室に向かった。
こんな風に時間があるのなら寝酒にワインを飲むより、ゆっくり音楽を聴くより、小腹を満たすより、本を読むより早希の隣にいるのがいい。
たとえ彼女が寝ていても。
いつもの定位置であるベッドの右端で眠る彼女の隣に潜り込むと、ふわりと彼女のいい香りがする。
ああ、落ち着く。
俺の居場所はここだ。
初めて早希を見つけた日のことは忘れられない。
ホテルのバーで一人カクテルを飲む悲しげな女性。
まるで迷子のような瞳に吸い込まれそうになり、彼女が流した涙に思わずハンカチを差し出してしまった。
ーー実父が社長をしていた会社を継いだのは年の離れた兄だった。
その頃俺はまだ大学生でモデルのアルバイトをしながら自由を謳歌していた。
卒業後は当たり前のように兄の会社に入り下積みから会社員生活をスタートさせたのだが、すぐに壁に突き当たった。
どこのどんな部署にいても会長の息子で社長の弟だという看板がついて回る。
ただの新人である俺には苦痛でしかないものだったが逃げ出すことも出来ない。それなりの準備をして入社したはずだった。
だが、自分の立場ではちょっとだけ仕事ができる新人社員ではダメなのだった。
片や兄は若いのに次々と実績を積み上げ社長としての地盤を固めていた。
焦る俺に手を貸してくれたのは父の友人たちだった。
札幌支社の林支社長、営業部の神田部長、THコーポレーションの高橋社長。
本社から離れ札幌に異動して下積み生活をした。
彼らから回りくどく直接的でないちょっとしたアドバイスをもらいながら色々なことを学び取っていく毎日は刺激的で勉強になった。
数年後、副社長として本社に戻ってからは自分の副社長としての立場を固めるのに必死だった。
兄は俺が戻ってきたことで家族との時間を大切にするようになり、自然と夜の会合や会食は俺の仕事となった。
そんな生活が続きいつしか身体より心の疲労がたまっていた。
腹に一物を抱えた人物や下心満載の女性たちの相手をしていて気持ちが休まる暇がなかった。
特定の女性を作る気にもなれずただがむしゃらに働いた。そんな数年間だった。
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