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俺の兄貴は靴紐が結べない。
毎朝、兄貴は出勤時間の2時間前に起き、後半30分は紐をいじくっているのだが、出来た試しがない。
俺は出勤時間の20分前に起き、兄貴が用意したトーストやら目玉焼きやらを食いながらタバコを半箱程空け、車に向かう。
今朝の兄貴は自分でセットした録画を掛けっぱなしにし、玄関で紐をいじっていたもんだからマジでむかっ腹が立った。
「おい、もう行くぞ。何やってんだ」
「あっ、けんちゃん。もう行く?なんかね、ひもが固くなっちゃって」
「何やってんだよ……オイ、これ固結びじゃねーか!テメェ、ふざけんじゃねーぞ!!一生取れねーぞこれ」
「えっ!いっしょう?えっ、どうしよう」
「知るか!!大体な、オメー、昨日も教えてやったのに何で出来ねぇんだよ。あ?」
「そんな!ひどい、けんちゃん」
人に頼らず、テメーでテメーの事を処理しようとする心意気のあるやつは嫌いじゃないが、兄貴の場合は別だ。兄貴が兄貴の事を処理しようとすると、大概ろくなことにならない。
兄貴一人だったら紐がほどけずに一生靴を履いたまま過ごすことになろうと、紐が結べずに転んで崖から落ちようと俺は全く構わないのだが、そこに他人が絡んできたら話は別だ。
兄貴はこれから勤め先に行かなくてはならない。
こんな馬鹿でも雇ってくれる奇特な場所があるのだ。
ここから車で20分程の場所に、そこはある。街一番の豪邸と名高い、安藤邸だ。
兄貴はそこで家政夫として三日前から働いている。それまで勤めていたタオル工場が経営不振で潰れて以来、ずっとハローワークに通い続けていたが、兄貴のような狂った奴を雇ってくれる企業など何処にもなかったのだった。
現に、一緒に工場で働いていた奴等も兄貴同様に狂っていたし、そいつらのツテも期待できそうになく、途方に暮れていたところを今の雇い主である安藤邸の奥さんが拾ってくれたのだ。
だから、兄貴はどう思っているか知らんが、俺は奥さんにかなりの恩を感じていて、奥さんの手間になるようなことは極力避けたいのだ。
「兄貴、ハサミ持ってこいよ。これ、しょうがねえからな。切るぞ」
俺は顎をしゃくった。
「ひも、きっちゃうの?」
「いいから持ってこいよ。お前がどうにか出来ることじゃねぇだろうがよ。はよ持ってこいや」
兄貴は泣きながらハサミを取りにリビングへ向かった。
全く、自分で自分の靴紐を結べないで朝から騒いでるとは、正気の沙汰ではない。だが、兄貴と暮らしていると、こんなことが日常茶飯事に起こる。
兄貴は今28歳だが、頭は小学校1、2年程しかない。揶揄しているわけではなく、事実なのだ。
兄貴は自閉症という障害を持っている。
俺は二つ下だから、生まれた直後の兄貴は知らないが、生まれた時はいわゆる「普通の子」だったらしい。
しかし、何歳かになって、兄貴は突然何も話さなくなり、今までできていた全ての事に遅れを来すようになった。
それに一番驚いたのはお袋だ。
目の前にいる我が子が日に日に変わっていく様子にただならぬものを感じたお袋は、すぐに病院に向かった。
そこで診断されたのが、自閉症だ。
そのうちに兄貴は何も出来なくなり、ついには生まれた直後の赤ん坊に戻ってしまった。
お袋は焦りに焦って、色んな病院やらメンタルクリニックやらを巡ったらしい。その間に俺達の親父である夫が自宅に寄り付かなくなっていても気付かないほど、お袋は兄貴の事で頭が一杯だった。
しかも、兄貴が変貌していった丁度その頃、お袋は俺を孕んでいた。
そして、俺が生まれる頃に、兄貴は再び言葉を話すようになった。
しかし、能力は同級生と比べ、圧倒的に劣っていた。
お袋は、俺と兄貴を保育園に預けて、以前働いていた美術大学講師に復帰したかったらしいが、それどころではなくなり、お袋は否応なしに家庭から離れられなくなった。
親父と離婚が成立したのは、俺が生まれて一年後のことだ。
親父は、兄貴が自閉症だと診断された辺りから、めっきり家に寄り付かなくなっていったらしい。
まだ幼かった頃は、親父とお袋は何故助け合わなかったのだろう、と、疑問に感じていたが、今、こうして兄貴と暮らしていると、親父の気持ちもわからなくはない。
子供だからこそ一生涯親なのだが、逆を言えば、子供だからこそ責任を果たせないことだってあるのだ。
兄貴の自閉症は世間一般の自閉症から見ると軽い方らしいが、やはり普通の奴等とは違う面がいくつもある。
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