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そのお袋は、俺と兄貴が高校生のときに突然死した。 突然の事で戸惑い、あれよあれよと母さんは骨になってしまったが、それまで疎遠だった親戚に形見分けをしてほしいと言われ、初めてお袋が生前つけていた日記を読んだ。 日記には、やはり兄貴の事が多く書かれていたが、俺が知らなかった外部の人間との関わりも記されていた。 特に兄貴が自閉症だと診断された頃は、一日に二、三度日記を記していた。 「7月2日 ネロの様子に変わりなし。ブロックをすすめてもネロは知らんぷり。この頃の子供が大好きなものなのに。やっぱりおかしい。朝から何も手につかない。早めに対応しないと良くならないのに…」 「8月5日 ネロをつれて公園へ。話しかけてくれた人がいたけど、その人の子供は普通に砂場で友達と遊んでいる。しかもネロと同い年。途中で泣けてしまって急いで帰った。もうあの公園には行けない。友達になれたのかもしれないのに」 「10月15日 ネロを朝からずっと殴っている。本当に苛々する。臨床心理士の先生からは焦らないで、と言われているが、それは先生に自閉の子供がいないから。ネロはいつまでたっても何も出来ない。焦る、焦る…」 丁度この頃、お袋はいくら疲れていても一睡も出来なくなり、精神科へ通うようになる。 それまで医療機関の人との関わりは、俺と兄貴の掛かり付けの医者と、兄貴を診てくれていた臨床心理士、保健師程度しか居なかったらしいが、この精神科でお袋自身のメンタルケアをする医師と出会い、お袋は大分気持ちに余裕が持てるようになったらしい。 「1月20日 まだ近所の人にはネロが自閉症だと言ってないし知られていないから、ネロと隣町の公園に来た。 ネロは道端にあった雪だるまを気にしていた」 「3月6日 隣の奥さんがネロに服を分けてくれた。着せてみたら思った以上に似合っているから、あとで見せに行こうか。でも、ネロが自閉だと分かったら奥さんはどう思うのか…」 お袋のそれまでの日記の登場人物は、お袋と兄貴の二人しか現れなかったが、進んでいくうちに、段々と登場人物の数が増えてくる。 兄貴にしか目を向けれず、狭い世界に暮らしていたお袋の視野が広がっていく様を、日記は刻名に記していた。 「6月18日 ネロが、言葉を話すようになった。 急いで病院に向かったら、これはとても良いことだって。やったー。ネロのタイプの自閉症の子は、一生話さない子も多いみたいだから絶望していたけど、希望を持って良いのかな。」 「7月12日 安藤さんが来てくれる。ネロのことを話して以来、ずっと気にかけてくれている。大事な友達。 病院に行くとき、ネロを預かってくれると言ってくれた。ネロは少しずつ話し出してるし、奥さんになついてるから甘えてみようか…でも、ネロが何かするんじゃないか、と気が気でないから、とりあえずお断りした」 「10月20日 自閉症親の会に行く。 今までネロが最高に悪いのだと思っていたけれど、改めて自閉症には色んな子がいることを知る。 わたしに勇気が足りないことも分かった。ネロは自分の子供なんだから、それは変わらないんだから、自分の子供はこうだ、って言わなきゃダメだ」 「12月26日 クリスマスをネロと賢、わたしで祝う。去年の今頃はお正月が過ぎた事すら分からなかった。 わたしなりの進歩! ワンホールケーキを賢が半分も食べてしまった。×2買った方がいいの?」 「2月20日 安藤さん以外のお母さんたちに、ネロの話を詳しくしてみた。 反応は様々だったけど、言われなければネロは健常児に見えていたみたい。自閉症という障害自体知らない人もいた。でもわたしだって、ネロがこうならなかったら知らないで死んだかもしれない。 ネロは話始めたとはいえ、言葉は圧倒的に少ない。ネロのこれからのために、自分から言って、知ってもらわなきゃいけない。」 「5月7日 公園のお母さんたち5名と、子供たちが遊びに来てくれた。 安藤さんが呼び掛けてくれたみたい。 ネロと賢と、同い年の太一くんがブロックで遊んでくれていた。 こんな日が来るとは思わなかった。友情に感謝。落ち着いたらわたしからなにかお礼をしないと」 「7月9日 絵を描く余裕が出てきた。最近はネロより、賢のが悪ガキで、そっちにばかり気をとられている。 ネロの似顔絵を描いたら、喜んで部屋の床に貼り付けていたから笑ってしまった。ネロも描いたんだけど、初めてにしては結構上手い。もしかしたら、教えれば伸びるのかな。 大学の講師に復帰しないかと打診が来たが、以前のような野心はどっかにいってしまった。今はネロに絵を教える程度で良さそうだ。それか、自宅で絵画教室を開くのも良いかも」 「11月4日 大学の出前講座をした。 最後の質問コーナーで、わたしの子供のことを聞かれたから、「男の子が二人いて、二人ともハンサム。お兄ちゃんはジャニーズ系で、下の子はベッカム似。下の子は気が強くて悪ガキ。お兄ちゃんは優しくて、自閉症を持っている」と、言うつもりはないのに言ってしまった。 前は、あれほどネロのことを隠していたのに。 学生たちから、ジャニーズ系とベッカム似のハンサム兄弟をつれてきてほしいと言われた。 次の講座に連れていく約束をしちゃったけど、「全然ジャニーズ系じゃない!」とか言われたらどうしよう!?と、そっちのが気掛かり。」 「2月6日 出前講座に出席していた生徒さんとショッピングモールで出くわす。ネロと賢を連れていたから、「講義のときによく見えなかったから、抱っこしても良い?」と言われた。 ネロは抱っこされるのが大好きだから、その子の顔に触ったり、食べていた飴をその子にも食べさせようとしたり、もうめちゃくちゃ。 でも、帰り際、「自閉症って、怖いイメージがあったけど、ネロくんみたいな自閉症の子もいるんですね。ネロくんは優しくてニコニコしてて、本当に可愛いです」と言ってくれた。 色々迷ったけど、ネロを外に出して良かった。勇気をもって話せば、わかってくれる人は必ずいると知ることができた」 日記は何年間にも渡ってつけられる分厚い大学ノートで、お袋は、それに日に何度か書き込みながら、最後まで書き綴った。 日記の総数は5冊に及び、俺は一週間かけて全てを読みきった。
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