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一 序
―嫌な雨だ...。―
驟雨が、あたりを煙ぶらせて、叩きつけるような音が、耳を被う。水無月の中元のあたりは、いつもこうだ。せっかく植えた苗に水は必要だが、過ぎてはまずい。軒先にどっかと腰を据えて空を睨む。
―あの時も、雨だった...。―
驟雨には、厭な記憶が多い。水溜まりが血に赤く染まり、拡がっていく。そんな光景ばかりが、思い出される。
「なんじゃ、また考えごとか、お父」
無意識に強張っていた背中に、唐突に声が投げ掛けられ、男は首を巡らせた。
声の主は、ツカツカと無遠慮に傍に近づくと、当たり前のように、隣に座り込んだ。
「その座り方は止めぃ。いつも言うとるだろうが...」
男は、眉をひそめて、傍らを見やった。胡座をかいているせいで、腰布が膝上あたりまで捲れ上がって両のすね脛がにょっきりと覗いている。
「なんでじゃ。誰も見ておらんだろ」
「お前なぁ...」
くりくりとした真ん丸な目が悪びれもせず、真っ直ぐに男を見ていた。
男は、はぁ...と大きなため息をついた。
「お前は女なんじゃから、足を出すな...と言うておるだろ」
「この方が、楽なんじゃ」
ぷっ...と薄紅色の頬を脹らませ、あどけなさの残る顔が、あっちの方を向いた。
「それに...」
男は、言いにくそうに言葉を継いだ。
「『お父』というのも、もうそろそろ止めぃ」
「なんでじゃ?」
ますます不思議そうに、小鳥が囀ずるように言って、鳶色の目を男の方に向けて首を傾げている。
「その...もう子もおるというに、妹背ぞ、われらは」
何気に、男の顔に面映ゆい色が浮かぶ。
「だが、わしを育てたはぬしであろう。お父であるには変わりあるまい」
「あのなぁ...」
あっけらかんと切り替えされて、男は頭を抱えた。
この娘は、そういう屈託の無さすぎるところは、実の父親そっくりだ...とつくづくと思う。
娘と男は、実の親子では当然、無い。正確には男に嫡妻はおらず、目の前の娘は、預かりもの...だった。
「確かになぁ---育て方を間違えたのは我れだが、もちっと、大人になってくれんか。スサ殿に面目がたたん」
「イヤじゃ」
即答され、男はさらに頭を抱えた。
娘は---十数年前、男がミカドの命で紀伊成敗に遠征した時に、彼の地の王に託された王の妹だった。
―この子は、わが父の末子、そなたに託す。―
あらかたの抵抗が収まり、王が宝物を差し出して降伏した。...その際に宮の柱の影から剣を振りかざして四・五歳くらいの子供がかかってきた。
生意気な幼子を小脇に抱えて、どうしたものか...と迷っていた時に、降伏した彼の地の王が、やはりため息混じりに男に言った。
―父親譲りの気質で、わしらでは手に負えぬ暴れもので...。だが、ぬしに鍛えられれば、良き兵になるやもしれませんゆえ...―
早い話が人質がわりに押し付けられた。
が、幼子のくせに大人の剣を振りかざす気概は大したものだと、さすがは勇猛で聞こえたスサ王の子供...とは思った。
それゆえ、―鍛えてみるか...―と思い、ミカドには内密に船に押し込めてクニに戻った。もっとも押し込めるどころか、はしゃぎまわり過ぎて、海に落ちないように見張るほうが大変だった。
―女とは聞いてなかったぞ...。―
確かに成長するにつれ、顔付きが、とは思った。
きちんと食べ物は与え、剣の稽古も厳しくしたわりには身体も小さく細いとも思った。
世話を頼んでいた男の母は、口数の少ない人で敢えて何も言わなかった。
女...と分かったのは、十をふたつか三つ越えた頃、剣の稽古中に、突然腹痛を訴えて、倒れ込んだのだ。
男が母親に看病を頼むと、苦笑いされて、―病では無いから...―と言われた。
よくよくと見れば、真ん丸な目と小ぶりだがぽってりとした口元には愛嬌があり、鼻は父親とは違って、小さくちょっと上を向いているのは、母親似かもしれない。...まぁ、まずまず悪い器量ではない。
方針を変えて、一族の誰か良さそうな若者に娶らせるか...と思ったものの、娘のほうが、なんとしても言うことを聞かなかった。
―子を成すならお父がよい。―
の一点張りだった。理由を訊いても、
―弱い男は嫌いじゃ。ー
その一言だった。
確かに迂闊に鍛えてしまったぶん、素質があっただけに、娘は滅法強くなってしまった。しかも、方針変更の甲斐なく稽古をせがむし、叱れば隠れて剣やら鉾を持ち出しては、舘近くの野で振り回し、結局根負けして、稽古を再開する羽目になった。
―貰い手が無うなるぞ。―
と言えば、
―お父がおるじゃろ。―
と平気で言い放つ始末だった。
確かに、男には妻はなかった。一族の長として子は必要とは思っていたが、何せ強面なうえに無骨だ。女の気を引くのも面倒くさいし、纏わりつかれるのも苦手だ。
何人かの女と何回かの関係は持つものの、いずれも他の愛想の良い男と恋仲になり去っていった。
―別に構わんがな。―
男には弟も何人かいたし、一族のためにミカドの戦に駆り出され剣を振りかざして闘う日々に多くの時を費やして、既に三十路近くなってしまった。
男の母は、図らずも男と娘が懇ろになってしまったことに、むしろ胸を撫で下ろしていた感さえあった。
ただ---娘の存在自体をミカドから隠していたため、おおっぴらに妻とするわけにはいかなかった。
―別によいぞ。立場的には、奴婢であってもおかしくはない。―
娘は一向に気にするふうでもなく、淡々と母親を手伝って男の世話をしながら、二人の男の子を産み、育てていた。
一見、つとめて平穏だが...波乱はまた、都からやってこようとしていた。
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