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「それは構わないけど……何か他に用事があったんじゃないの?」
「いや、お前の近くに妖気を感じたから確認しに来ただけだ」
「私を心配してくれたってこと?」
稲七は一旦口をへの字に結ぶと、一つ咳払いしてから答えた。
「人間界の秩序維持が俺の仕事だからな。あと、無駄足にしたくないんで、ついでに店も見て帰ることにする」
「はいはい、そーですか」
意外と優しいところがあるのかと思いきや、本当に可愛げの無い狐だ。
こうして私達は、三人で祖母の蕎麦屋兼自宅へと向かうことになった。
「ここか」
古い木造の小さな日本家屋。もう明かりを灯さなくなって久しい蕎麦屋の看板は、夕陽に照らされていると一層物寂しく見えた。
正面のシャッターはずっと下ろしていて、休業中の張り紙が貼ってある。どうしても閉店とは書きたくなかったのだ。
「玄関はこっちよ。上がって」
私は横から回り込んで、住宅として使っている方の玄関へ二人を案内した。
誰かがうちに来るのは、葬儀の日以来だった。稲七は腕を組み、天助は辺りをキョロキョロしながらついてくる。
蕎麦屋の店内には、玄関に入って右手にある引き戸からも行き来出来るようになっていた。私は店に入って明かりをつけると、二人をテーブルに案内する。
「ここがうちの蕎麦屋よ。今は閉めてるけど……」
「ほえ〜、壁にいっぺぇ札がぶら下がってるだ。あれは何のまじないだ?」
なるほど、天助は飲食店に入るのが初めてなのだろう。
「あれはお品書きよ。テーブルの上にも同じ内容の冊子があるわ。ひとくちに蕎麦と言っても色々な種類があるの。好きな物を選んで! 今は材料が無いのもあるかもしれないけど……人間の文字は読める?」
「いんや〜、じっちゃんにも教わっただが、さっぱり覚えてねぇ……」
「教養も無いのか。まあ、田舎狸なら仕方ないな」
稲七は天助に目もくれず、冊子を手に取ってパラパラとめくった。
「おめぇは本当につれねぇ奴だな……。ほんだら、これは何て書いてあるだ?」
天助はお品書きを覗き込み、メニューの一つを指差した。
「たぬき蕎麦だな」
「は?」
稲七の返答を聞いて、天助の顔がみるみる青くなる。そして、震えながら涙目で私に訴えた。
「つきみは……狸を蕎麦にしちまうだか?」
「え?」
天助の反応に一瞬戸惑ったものの、私はすぐに意味を理解して吹き出してしまった。
「ないない! たぬき蕎麦に狸は入ってないから安心して! うちのたぬき蕎麦の具は、天かすと青ネギになると、桜海老も入ってるの。美味しいわよ!」
「そ、そうか〜。テンカスとかも良くしらねぇだが、狸でなくて安心しただ……。じゃあ、オラはそれにしようかな。なんせ狸って名前だからな!」
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